悲 、願。
とある街を出たあと一晩中走り続けていた二人だったが、もうすぐ朝日が拝めそうな頃合いになってはじめて、アスマが足を止めた。その気配を察して、前を行くガイも立ち止まる。
「どうした」
「……喉が渇いた」
「水よりもアスマ、お前、煙草が欲しいのだろう」
ガイが言うのと同時に、アスマは煙草に火を着けた。
旨そうに煙を吐くアスマの向かい側で、ガイはすることもなく、ただ突っ立っていた。
日が昇る前の街道は、いまだ真っ暗で、近くの森の木立ちが風に揺れ、枝や葉がこすれ合う音だけがサワサワと鳴るのが耳に触った。
ガイの懐には、遠方の国から運んできた一冊の本の様なものが入っている。在りかを確認する様に、胸の上から指先を押し当てていたガイは、アスマに向かって聞いた。
「この本が何なのか、アスマは知っているのか」
「知っているも何も、最近、女どもがうるさく騒ぐ、貴公子・Z様の主演作の台本決定稿だと聞いた」
「ふむ。不思議だな。台本を、しかも一冊だけを運ぶ仕事で、上忍二人も雇うなど。運送屋を雇えば、事は済むのではないのか」
「普通はな。だが、この台本が、単なる浮ついた色恋のセリフの羅列ではなく、数十億単位の金銭を生む金の卵だとしたら、上忍二人でも不充分だという考え方も出来るぜ。金の為に、これを奪おうと命をかける奴が出てくるのを察しての事なら、何も不思議な事じゃない」
「どういうことだ」
「この脚本家は一作目で、当時、実力派と言われていたにもかかわらず、それほど人気がなかったY様をスターダムへとのし上げた。その後にも次々と、数多くの俳優を、忘れがたい人物を演じさせて一流にしている。デビューしたての新人からベテランの俳優まで、俳優と名の付くものの誰しもが、この人の脚本で演じたがってるってわけさ。当の脚本家は、喧騒を避けて過疎の村みたいな場所で、おまけにいまどき手書きで書いている変わり種だ。手書きだから、出来上がりの本はお前が持っているその一冊きりだ。コピーすら取るのを嫌がる。執筆依頼は殺到しているらしいが、なかなかに遅筆らしい。だから、自分の番を待っていられない、よからぬ奴が、出来上がりの本を狙って、盗む。そして速攻で撮影して、本家よりも先に公開するという事だ。なにしろ今まで、この脚本家が書いた作品は、興行的に流行らなかった事は1度もないからな。だから他人の依頼したものを横取りしようという輩が現れるのさ」
「だが、契約などは、どうするのだ」
「脚本家はその辺は至って無頓着で、出来上がったものを渡してしまえば後はどうなろうとお構いなしという立場のようだな。だが、本が狙われるという事は、いつ原稿が出来上がるのか、その受け渡しの日時が部外者に知られているという事になる。もしかしたら関係者の誰かが情報を漏らしている事も在り得る。なんにせよ、金が絡んでいるからな。利益の前には手段を選ばない人種もいるって事だ。どこの世界にも」
「だとしたら、最初に決まっている俳優とは別の者が出るという事になるのだろう。……誰だ、人気の、名前を良く知らぬのだが、その男が出なくともよいのか」
「面が良ければ誰だっていいのさ。まあそれは言い過ぎか。だが特定の俳優でなければならないという事は、ほとんどないようだな。それがAだろうがBだろうが、差はないって事だ。余程のヘタクソじゃない限り、一定レベルの役者ならば多分、誰でも。とにかく脚本が作品の出来不出来の八割方を決めるらしいぜ。今一番の人気者X様が出ていた作品の中でも、役者の演技は良くても脚本が駄目で、鑑賞に堪えられないものは山ほどある」
「良く知っているのだな」
ロマンスものやら悲恋ものなどとは縁が無いと思い込んでいたアスマの口から説明される言葉の一つ一つに、ガイは感心したように腕を組んだ。
「アスマがそんなに詳しいとは、意外だな」
「ふん」
つまらなそうにアスマは返事を返す。
何故そんなに詳しいのか。実は、紅が夢中になって応援している俳優が、そのXなのだ。 Xは火の国の出身ではないのだが、何故か今、一番注目されている俳優として名が挙がっている。
数多く存在する彼のファンの中では「作品を何度、見たのか」その回数を自慢するというのが挨拶代わりになっているらしい。なので、紅は時間を惜しんで映画鑑賞をしているのだ。
つまり、紅と一緒にいる時には、アスマは必然的にX様が出ている作品ばかりを幾度も見せられる羽目になっている。違う話ならともかく。全く同じ内容を映画館でも部屋でも繰り返し見せられて、まるで嫌がらせをされているのかと思うほどだった。
その殆どがラブロマンスもので、血わき肉踊る派手なアクションや背筋が凍りつく恐怖のホラーなど、望むべくもない。好きだの嫌いだの、くっついたり別れたりを繰り返すだけのように見える話は、アスマにとって退屈この上ない時間だった。
が、勿論、紅はアスマに見せるために見ているわけではない。自分が楽しむためだ。紅の部屋には、彼が関係する雑誌や映像が山と積まれている。そんなX様の中に埋もれるように、紅はいつも画面の中の男に夢中になっている。
あらためて言うまでもなくアスマは生身の男で、しかも紅の真近にいるというのに、映画上映中は画面の中の遥か遠くの男以下の扱われ方だった。もしかしたら、その存在すら無視されている様に思えるほどだ。
アスマが数少ない休日にやって来ても、その1日は紅にとっても数少ない休日なので、朝からずっと映画鑑賞に忙しい。なので、アスマは半ば放置状態に置かれているのだった。
かといって紅の気が済むまで、好きだの別れないだのというセリフが満載の上映会が終わる事はなく、したがってそれまで、アスマも何もする事がない。
紅が相手をしてくれるのを今か今かと待ちわびながら、興味なく付き合って見ているというわけだ。
そんなふうに、いつもは辛抱強く待たざるをえないアスマなのだが、過去に一度、紅の映画鑑賞を遮った事がある。とはいっても、アスマにとっては至極、正当な理由だった。
急を要する緊急事態。男としての自然な体の欲求だったのだが、画面に釘付けになっていた紅にとって、アスマの緊急事態など、この際どうでもよく、つまりはうっとおしいだけだった。
それでも最初のうちは構ってくれていた紅だった。が、あまりにしつこいアスマに対して腹を立て、邪魔だと言いたげに、アスマに触れていた手に力を入れた。その時、真っ裸だったアスマは勢い余って、かぶっていたシーツごと床へと転落してしまった。うつぶせで床に強打し、無防備だった大事な部分を嫌というほどしたたかに打ってしまった。アスマの中で、あの痛さは記憶に新しい。
それからは、しかたなくそしておとなしく、映画鑑賞に付き合うようになったのだが、だからといって、アスマはそれほど真剣に見ているわけでもない。けれど何度も見せられていると、興味のないアスマですら、セリフから話の展開まで、おおよそ記憶してしまったくらいだった。
どの話に出て来る男にも女にも、最後には別れが待っていた。
別れとは身分の違いであったり、ただの思い違いであったり、ライバルに仕組まれた罠であったり。難病の果ての死という別れもあった。
紅の今一番のお気に入りは、記憶を失っての別れだった。見る度にハンカチを濡らして同じ場面で鼻をすすっている。
その話のどこがいいのか、アスマには全く分からないし分かりたくもない。ただ、話の全てを知っているものを、よく飽きもせずに見ていると、呆れたり関心したりするだけだ。
同じものを何度も見るなど馬鹿ではないかと思いつつ、目を真っ赤に、おまけに鼻の頭まで赤くして泣いている紅の姿に愛しさを覚えたりするのも事実で、抱きしめる腕に、ついつい力を込めてしまう。俺達二人に限って別れなどないに違いないと思ってみたりする、そんな自分も同様に馬鹿ではないかと考えたりもするのだが。
とにかくその俳優やら監督やら、そしてその業界について、アスマは、ガイより多少は知っているという事だけは確かだった。
「今、他国出身の人気俳優はたくさんいるからな」
ガイは、映画など余り見る事はないのだと言いながら、
「最近、公開されている最新作は、ハンカチが何枚も要るほど泣けて悲しいと。誰もが泣けるともっぱらの評判だと聞いている。それほどの悲しみとは、どんなものか興味がある」
「俺には理解出来ないな」
「そうか」
「所詮は、誰かの創作だ。作り物に真実はあるのか。ガイ、お前が欲しいのは、多分、なんていうか、本物っていうか」
「そうだな。悲しさなどというものは、現実の中に転がっているからな。探さなくても、あちこちにある。日々新しく生み出されて、重なりあって存在しているからな」
「重なりあって、か。掃いて捨てるほど、日常的って事だな」
「自分の中にも、あるだろう?何か・誰かから受けた、悲しいと思う気持ちを持っているだろう。なのに、わざわざ作り物など見に行くなど、おれにはよく分からぬ。だからよけいに興味がある」
「それはだな、見に行く奴は、日頃よっぽど幸せか、悲しいと泣いてる自分の姿に酔ってるか、そんなところだろ」
「敵を作るぞ、そんな言い方は」
「敵で結構。悲しみが欲しい、悲しくなりたいとか言う奴とお近付きになりたくないね」
はっきりと言い切ってはみたものの、そういえば紅もその一員か、と気付いて、けれどあいつだけは別だと心の中で思いながら、アスマはその事は黙っていた。
ガイは神妙な目つきをする。
「ああ。アスマの言いたい事はおれにも良く分かる。悲しさなんて、求めて得るものじゃない。求めていないのに、いつの間にやら背中にくっついていて、取ろうとしても取れぬものだ」
「まあな」
「いつまでも、付きまとって離れようとせぬ。忘れようと努めても、いつまでも」
「……ああ」
ガイが口をつぐんだのでアスマも黙った。煙草を吸い終わり、吸い殻を手で弄ぶ。
うるさいくらいに鳴っていた、枝と葉がこすれる音は、いつの間にか止んだ風に音を無くしている。あたりは静かになっていた。
しばらく間を置いて、つぶやくように、ガイが口を開いた。
「つらすぎて思い出したくない悲しみなど、欲しくもない。けれど持ってるものだ。誰だって、ひとつやふたつ」
「…そりゃあな。この仕事をしてりゃ」
アスマは新しい煙草を取り出した。火を付けようとしたが、手を止めた。「この仕事だから、特別なのか。それとも生きてりゃ、誰だって同じようなものなのか」
「知らぬ。他の生き方をした事がないからな」
それきり、ガイは黙ってしまった。別段、決まった場所を見るでもなく、視線は宙を、頼りなくさ迷っている。
アスマは、再度、口を開いた。
「悲しくなりたいと言えるだけで、俺に言わせりゃ幸運なんだよ」
「そう言われたら、そうかもしれぬな」
「ふん。ばかばかしい話だ」
言ってアスマは煙草に火を付けた。息を深く吸い、ゆっくりと煙を吐き出す。ガイはアスマの吐き出す煙の行方を、ぼんやりと目で追っていた。そしてアスマが煙草を一本吸っている間じゅうずっと、吐き出された煙の行方を見ていた。
煙草を吸い終わったアスマは、吸い殻をベストの内側にすべりこませた。わずかに汚れた指先を、腰の辺りで拭う。
休息は終わりだと口に出すまでもなく、互いの呼吸でその場を離れようとした、その時に。
背を向けたガイは、アスマに言うともなく言った。
「おれは、普通の暮らしがしてみたいと思う時がある」
かすかな声だった。聞かせるつもりもないような、つぶやきにも足りない小さな音だった。
アスマは驚いた顔をする。
「嘘だろ。足抜けでもしなきゃ普通の生活なんて出来やしない」
「足抜けしたって追っ手が来る。おれたちは忍だからな」
相変わらず背を向けたままで、ガイはうつむいている。
確かに忍は一生、忍なのだ。
幼い頃に、何も分からないまま忍として生き始めたにしろ、ある年齢からは、ここで生きていくと決めた以上、今更、他の道を、他の生き方を選ぶ事など、出来るわけもなかった。まして、それが許されるはずもなかった。
アスマもガイも、忍として20年以上も生きてきた。
その間にどれほどの機密を知り、また、どれほどの命を断ち切ってきたものか。
任務での全ての記憶が彼らに在る無しにかかわらず、また罪の意識の重さ軽さに関係なく、してきた事、その全てとは言わないまでも、世の中の影の部分をかなり、忍が担ってきている。表に現われない、表沙汰には出来ない、表に出すことを許されない、物事、出来事の処理。
全て仕事とはいえ、自分で選び取って歩いて来た道だ。
「足抜けする」と文字にすれば簡単に書ける言葉であっても、その実、単に仕事を辞めるという事ではない。普通の生活では知り得ない事柄に関わった事実だけでも、もう普通の生活には戻る事を許されない。
多分、いや確実に、里を抜けたその時点で、足抜けした者の命は自分のものではないに等しい。
影の世界に潜む忍を、まとめて一つに統率している「里」という存在。形のないその「里」の意思が、足抜けという前例を許さない。
それでも里を抜けようとする者はいる。理由は各自様々だが、わずかな例外はあるとしても、そのほとんどの者の望みは叶わなかった。そんな彼らの命の終わりの姿を、ガイもアスマもその目で見てきたし、後を追ったこともある。抜けた者を追う追跡者は、たとえ親しい仲間であるにせよ、任務と割り切って地の果てまでも追いかけるのが仕事なのだ。
里を抜けた者は追いかけたものの手によって、「里」へと帰って来た。誰もが非情なまでに、半ば見せしめのような姿で、鼓動を止めて二度とは動かないその身を晒していた。
多数の忍を使った追跡者という名でどこまでも追ってくる「里」から逃げおおせる事など、つまり里を捨て去る事など、不可能に近い事だった。
そんなふうに里を抜けられない以上、普通の暮らしなど望むべくもない事を、許されざる事を、ガイが知らないはずがない。
アスマは苦笑いをする。
「お前が、そんな事を考えていたとはな」
ガイは焦ったように振り返り、低い声だけれどしっかりとした口調で言った。
「勘違いするな、アスマ。おれは仕事を愛しているし、忍という生き方を嫌うつもりもない。だが」
ひと呼吸置いて、ガイはまた、つぶやきを放った。
「たまに、思うだけだ。違った生き方をしていたならば、どうだったろうかと」
「ふん」
「そんな事をふと思う気分になる時もある」
どんな気分の時だ、と、アスマは聞かない。聞いてもガイは言わないだろう。ある程度、アスマも察しが付く。それは決して楽しい内容ではない。
アスマはその場の空気を変えたくて、思いつくままに言った。
「そんな時には、泣ける映画でも見て、気分を変えりゃいい」
「そうか」
「…だが、お前なら、よけいにブルーになるか。登場人物に感情移入しすぎて」
「作り物ならば、後腐れなく泣けるからよい。安心して、見ていられる気もする」
現実にはつらい事や、自分の力が及ばなくてやりきれない事ばかりだ。
けれど、誰かの創作ならば、無力感を嘆く事なく、映画が終わったと同時にその世界から離れる事が出来るのではないのか。劇中どれほど悲しくても、それは非現実なのだ。作り物で偽物の世界。そんな風に考えてみたいと思うガイの気持ちも、アスマには分からなくもない。
「その意味でなら、作り物も悪くはないってわけか」
アスマは顎鬚を触りながら、映画の中の現実離れした話をあれこれ考えてみる。
多分、あの話ならガイだったらハンカチ3枚は要るな。タイトルは何だったか。紅の家で見たさまざまな作品を思い出していた。
ガイは遠くを見ている。その横顔を見ながら、アスマは言った。
「だが、足抜けなど出来ないと充分、知っているお前が、何を考えてるんだ。その願いは一生、無理だぜ」
その言葉を聞きながら、言わなければよかったと、ガイは憂鬱そうにした。もうこの話題は終わりにしたい、そんな思いを込めながら、つぶやきを吐いた。
「……叶わないから願うのだ、アスマ。叶う願いは、願いとは言わぬ」
ぽつりと言った。
求めても得られない事をたとえひとときでも考え、望んでしまった事を後悔するかのように、ガイは少しだけ寂しそうにする。けれどすぐに、ガイは眉をしかめた。しきりと先を見ている。
何か言おうとするアスマに、ガイは静かにしろという素振りを見せた。
急を察して、アスマも周りに気を配る。
夜明けにしては静かすぎた。鳥の飛び立つ音も、ましてや鳴く音すら聞こえてはこない。二人がいる区画だけが、切り取られた様に空間ごとスッパリと周りから遮断されていた。
「俺達同様、早起きなんだな、敵さんは」
囁くように言ったアスマに、
「来るぞ!」
アスマへと目配せしたガイの合図。
敵も、それを待っていたかの様だ。
ガイが真横へと跳び退くと同時に、二人の頭上から尖った何かが霧雨の如く降ってくる。
ガイは入り組んだ木立ちの中へと走り込んだ。すかさず、アスマも後を追う。
多数の夢見る観客と多額の金が絡んだ架空の世界。その世界を守る為、現実に引き戻された二人だったが、今までのよどんだ空気から一変して張り詰める空間の中、水を得た魚の様に、生き生きとした表情で任務という名の今を生き始めた。
(終)
2006.5.17(手直し2006.7.23) |