※ガイとカカシの描写について原作には無い部分があります。
拙作『深ければ深いほど』を読了されてから読まれる事をおすすめします)
ひとつだけのもの。
ガラス製の金魚鉢の中、背びれも尾びれも動かさずに。藻に身を隠す一匹の金魚。死期が近い事が見て取れる眼。
人の行きかう上忍待機所の中、その事に誰も気付く様子はない。
只一人。マイト・ガイを除いては。
彼は悲痛な表情で天井裏から顔だけ出し、金魚鉢を見つめる。半日過ぎても、その場を離れようとしなかった。
アカデミーの子供達が祭りの夜店で掬ってきた、ごく普通の金魚数匹。
丸く小さな金魚鉢に放り込まれてひしめき合い、酸素を求め立ち泳ぎしていたのを見かけたのは、ガイだった。 あわてる様にその場を去り、すぐに大きな水槽を抱えて現れた。
そうして世話をし始めたのは1年半程前の事。
この男は、自分の琴線に触れる事柄に出合うと昼夜問わず夢中になるという癖がある。その対象が流行していようがいまいが関係ない。
水の中へ空気を送り込む装置や水温計はもちろんの事、水槽の底に敷く石や藻をどこからか手に入れ。人に聞き本を読み、熱心に研究を重ねる。特に病気になって死なぬように、万全の注意を払った。 自分が忍務で留守の時にはそばに大きな表を下げ、世話する者まで指定した。
名前を列挙された栄光ある者は。
「魚の世話など俺が知るか」と、大声で悪態をつくアスマ。
「心優しく見えるかもしれない」と、別の目的で下心見え見えのゲンマ。
「上忍の命令ならその内容は問わない」と、伏し目がちのネジ。
「心を込めてお世話します」と、両手を挙げて誓うリー。
アスマはそれでも餌やりを忘れた事は無かったし、ゲンマも金魚についての知識を蓄え、デートの時のネタが増えた。ネジは拾った木で金魚の寝る場所を器用に作ってやったし、リーは特徴を記憶し、それぞれの様子を日誌につけた。
ガイはさも当然だというように一匹ずつを見分け、名前を呼んだ。
花・優・実・望・夢・鈴・笑・愛。計8匹。8名というべきか。
どれもこれも女の子の名前なのは、偶然か趣味か。とにかく名前を呼ぶ時に、周りの者に苦笑されてはいたのだが、名付け親は気にするはずもなく。可愛がった。
里にいる時は朝・晩見に来て、体調管理を怠る事はなかった。忍務で留守にした後も、帰郷後は真っ先に水槽の前へとやって来た。
元気で、しなやかに泳いでいて欲しいと願うガイ。その為になら手間暇を惜しむ事はしなかった。
どんなに水の調子を整え、温度に気を付けていても。寿命は避けては通れない。
朝、水面に浮いている金魚と対面したガイは、2〜3日の間ふさぎ込む。けれど、元気に泳ぎ回る乙女達の姿を思い出し、再び世話に精を出す。
何ヵ月かに一度、憂鬱な日を過し。乙女達は次第にその数を減らし。
とうとう1匹だけになってしまった時にガイは、水槽を元の金魚鉢に変えた。大きな水槽に1匹だけでは、あまりに寂しい。
丸い鉢はレンズの働きによって、心細げに泳ぐ金魚を大きく見せる。実物と鉢に映り込む姿と、2匹いるような錯覚を感じ。
ひとりきりの切なさから救われたのは当事者の金魚ではなくて。世話をしているガイなのだった。ガイはしゃがみこんで、台の上に載せた小さな金魚鉢を飽きもせず眺めていた。
いつまでもいつまでもこのままでという想いを知ってか知らずか、彼女は鉢のカーブに沿ってくるくると丸く泳ぐ。その単純な動きを見ていると、心が解放され頭の中の疲れが取れてゆく気がする。
その場を指定席とし、ガイは全てを忘れ、ゆるやかな刻を過ごす。
鉢という制約された中とはいえ、思うがままに泳いでいる金魚の名は。
夢。
この名前をつけた金魚が残った事で、ガイは不思議な気持ちになる。
希望も愛も、そして優しさも失って残ったのは夢。偶然とはいえその事に驚きを感じながら。夢と名付けた金魚を見ながら自身の夢を思い描く。そして、最後まで捨てられないのは夢か、それとも愛か。
真剣に悩む自分に気付いて頭を掻いた。答えなど簡単に見つかるはずもなく。
彼女の異変に気付いたリーの、日誌の記入は3日前。
"なんだか元気がありません"
アスマが餌を3粒つまんで鉢へ落とし、1粒飲み込んだのを見届けたのが2日前。
鉢を手で包んで、
"とにかく明日まで頑張れ"
と、元気づけていたのはゲンマ。
これが昨日の事だ。それでも彼女は少しずつだが、泳いでいたのだ。
忍務を終えたガイが目にしたのは、動きを止めた金魚の姿。
脇に置かれたリーの日誌に目を通し、金魚鉢を凝視し憮然とする。
今までの7匹が水面に浮かんだ前日は、皆これと同様だったのだ。ガイは日誌を握り締め、最後の1匹にその時が来たのを確信する。
何名かの上忍が、その場で立ちつくすガイを目にし、声を掛ける。うまく平静を装えなくて、上手く対応出来ず、いっそ鉢を持って家へ帰ろうと考えた。
けれど小さな鉢の中の水は、持ち上げただけで大きく揺れた。その揺れは、弱っている彼女にとって心地良いはずはない。
静かにそしていつもと変わる事のない状態で、消えようとする命の火をその最後まで見届けてやろう。それが世話をし、この手に命を委ねられた者の務めなのだ。
そう心を決めるとガイはその場を離れ、目指したのは天井裏。板を外し寝転んで、埃にまみれながらじっとその場を動かない。
「君たちの先生は、どこかなあ」
練習場。午後を少しまわった頃。
リーの足技を軽く往なしたネジが、テンテンのクナイと手裏剣をよけていた時。
間延びした声が彼らの耳に届く。姿は見えない。
「…誰?」
クナイを手に身構えるテンテンに、彼女を守ろうとその前に立つリー。
ネジは目を凝らす。前方の木を仰ぎ見た。けれど気配すらも見切れない。
「先生は、今日は居ない」
「どこにいるか、知らないかなあ」
耳をくすぐる囁き。
遠いのか近いのか、まるで距離感覚が掴めない。
「聞いてどうする」
敵意を晒す、ネジ。
「敵じゃないよ。えっと、日頃お世話をしている者、とでも名乗っておこうかな」
のんびりと話す声に少しは胡散臭さを感じるものの、警戒しなければならないほどの悪意は無いようだった。
「居場所は知らない」
「…たぶん。先生は金魚の事が」
言ってしまってリーは、ネジの苛立った様な視線に口を噤む。
「ああ、そうなの。ありがとう」
リーの頬を声が撫でる。前髪がほんの少し、揺れる。
さわさわと風が鳴り。そしてあたりは元の静寂に包まれる。
「何?今のは」
あたりをキョロキョロと捜すテンテンは、急ぎ、林の中へと走ってゆく。
リーとネジはテンテンの後ろ姿を見送った。後は追わずにその場で佇む。
「お喋りだな、リー」
「ごめんなさい、でも悪い人ではなさそうです」
「独りにしてやった方がいいと言ったのはお前だろう」
「そうでした」
胡座をかいて座る。そんなリーを、ネジはもどかしく見つめる。
「でもネジ」
リーは見上げ、顔を歪ませる。
「…最後の1匹です。あの様子だと明日には、もう」
「どちらを気にしている?金魚か、それとも」
「もちろん」
その後は口にせず、黙り込む。
゛花゛の時も゛鈴゛の時も。もちろん他の5匹の時も。
教師の練習場での口調は同じだったが、技の重みが少し違った。
とはいえ、いつものごとくよけきれず、手加減され、口惜しい気分を味わう事に変わりはなかった。
けれどそんな風に弟子にも悟られてしまう程の、教師の悲しみの大きさ。そして、悲しみの深さを想う。
「たかが魚1匹の事なのにと、思いますか」
問われてネジは後ろを向いた。今はリーに、顔を見られたくない。
「お前は、そう思っているのか」
その声の中に、教師と同じ悲しみを感じ取ったリーは。ネジの背に向かって詫びた。うなだれる。
「でもまた元のように」
小さな声で呟いた。
「そうだといい」
林の中から駆け戻って来るテンテンの姿を目にとめながら。
ネジはガラスの金魚鉢の前で佇む、教師の心を想う。
けれど、教師のその時の顔を思い浮かべる事は出来なかった。それは、一つの命の終りを自分で認める事になる。
後ろでリーの、鼻をすすり上げるような声がする。ネジは息を切らして走り寄るテンテンに向い、
「リーは、弱い」
とだけ、言った。
ネジはネジなりに、リーの事をかばう。テンテンにも、余計な気遣いをさせたくなかったのだ。
「また負けたの、リー」
事情を知らないテンテンは、いつものように無邪気な笑顔を見せた。
一匹になった金魚は体を斜めにし、ヒレの動きも頼りなさげな様子だっだ。酸素を送る空気の泡だけ、が規則正しく水面へと浮上する。
ガイは腹這いになり、重ねた両手に顎を載せ。普通の呼吸すら命の灯を吹き消してしまいそうで。微かな息をするのみだ。
ただ静かに、ただそっと、金魚の鉢を見下ろしている。
時計の針が9時をまわると、人影はまばらになってゆく。
冷えた待機所の部屋の空気は、ガイのいる天井にまで昇ってくる。
窓から見える外の風景は秋の終りを感じさせた。木枯らしが木の葉を舞い上げる音が聞こえる。
ガイは体を震わせる。肌が瞬間、面積を狭くし、少しだけ体が縮んだ様な気がした。
丸い鉢の中、水面へと浮き上がり、そして動かなくなったひとつのからだ。
見たくはなかった瞬間を目にし、それによってガイの中へと蓄積されてゆく悲しみは、痛みを伴い次第に大きくなってゆく。そしてガイの心を傷つけてゆく。
ただ、為すすべもなくただ、ガイはその場に息を潜め。唇を噛む。視界が、涙の所為で揺らいでいく。
その時、鉢の前に1人の男が立ち塞がった。左右に視線を送り、首を傾げ。
ガイにはそれが誰なのか、顔を確かめるまでもなくその気配で分かっていた。
男はすう、と顔を上げた。ガイの目を見ず、すぐに視線を外す。
「おれに用か。カカシ」
ガイの声は掠れて聞き取りにくかった。唇が震え上手く声が出なかった。
カカシは返事をせずに、視線を金魚へと戻す。そしてガラスの鉢を持ち上げた。大事なものを持つように、両手でくるむようにする。
ゆっくりと歩き、待機所の前にある庭へと出た。
黄・赤・白の色をした白粉花が満開に咲き誇る、よく手入れされた花壇。根元の土をわずかばかり手で掘ると、浮いてしまって動かない金魚を静かに横たえる。
元のように土を被せようとした時、その丸い穴に花が一輪舞い落ちてくるのをカカシは見た。いつのまにか、ガイが、その後ろに居た。
涙を我慢して鼻をすする呼吸音の主は、その後カカシの手元を黙って見守っていた。
花と共に土の中へと姿が消えてゆく。さほど時間は必要では無かった。
カカシは指先の土を払う。けれどすぐ立ち上がる事はしなかった。しゃがみ込んだままで、後ろのガイの動向を窺う。
月がほんの少しだけ傾いた。
カカシとガイの影が長く伸び、花の上に影を作る。
「分かってはいても、別れというのはつらいものだな、カカシ」
鼻声が治りきらぬまま、ガイは呟いた。
「繰り返し何度も経験してきたというのに、慣れるという事がない」
「だから俺は嫌だったんだ。ガイが金魚の世話をすると言った時も」
ガイが水槽を探していると耳にした時、カカシは理由を言わずに反対をした。
そして頼まれた世話係も拒否したのだ。
たとえ金魚一匹といはいえ。世話をし可愛がっていたものの死は、少なからずガイの心を傷つける。その事を知っているからこそ、カカシは飼う事に反対した。
世話係を拒否すれば、そんなカカシの気懸かりを察してくれるのではないかと思ったのだ。
けれどガイは、目の前でのんびりと泳ぐ金魚の虜となっており、カカシの心には気付かない。
「悲しみを、わざわざ自分の手で生み出す事など、しなくていい」
世話はしないと言ったけれど、カカシも金魚の様子は気に留めていた。
今日起こってしまった事も、飼う前から予想はついていた。
それでもこれまでは、何匹かを失っても、まだ世話をする対象物が残っていた。
生き物は一瞬たりとも待ってはくれない。餌をやり水を換えてやるという世話の作業の間に、大切なものを失うという悲しみから出来た傷は癒されてゆく。
そうして世話をする者の悲しみは薄れ、精神の平衡は保たれていたのだ。
けれどもう、ガイの心を慰める金魚はいない。
今のガイの心の中には、最後の金魚と共に可愛がってきた全ての金魚との思い出が去来しているに違いない。
そしてそれを思う事は、ますますガイの心の傷を広げてゆく。
「ガイは自分で思う程強くない。こういう事には関わらない方がいい」
カカシは姿勢を変えずそのままで、前だけ見て話す。その声に導かれる様に、カカシの耳にガイの声が届く。
「そうだなカカシ。本当にそうだ。おれにとって別れというものは恐ろしいほど怖く、つらいものだ。けれどそういった記憶は後でどうとでも出来る。おれの周りには仲間がいる。みなが生きていてくれさえすれば、おれはどれ程傷つき、苦しくてもまた歩き出せる。カカシ、お前もこうしておれの事を気にかけてくれている」
ガイの影だけがゆっくりと動く。カカシの隣にしゃがみ込んだ。膝を抱えるように両腕を回す。
「もしも誰かがおれの前から姿を消すというその日、おれは 今日の何倍も何十倍も悲しいだろう。その事を考えるだけでおれの心は壊れそうだ。おれを支えてくれる者達を失う事は、とてもつらい。まして、その別れの姿を目にする事など、おれには」
最後まで言う事が出来ず、ガイは口をつぐんだ。
カカシにはガイの表情は見えなかった。けれどカカシは見えないからこそ、その声だけを耳を澄まして聞く事で、ガイの想いを理解しようと努めた。
ガイは自分が悲しいと思う事を、人には体験させたくない訳だ。きっと次はそう言う。カカシの確信に近い予感だった。
「だがおれは、おれに関する事でみなに悲しい思いをさせたくはない。特にカカシ、お前には」
思っていた通りの事と、そして予想し得なかった事の二つが、ガイの口から漏れ聞こえ。カカシは唇の震えを感じながら深く息を吸って目を閉じた。
戦いの後、命の鼓動を感じ同じ時を生きているという喜びを分かち合った瞬間の、互いの体の温かさを今でも覚えている。その頃は今よりも死が身近にあったけれど、それでもどこか遠い存在に思えていたのだ。
けれど生あるものには必ず、死という終わりが課せられている。
どちらが先に逝くにせよ、その時に"泣けない"と言ったのはカカシだ。
悲しみが深ければ深いほど、人は涙を流せないと言ったのもカカシだ。
あのときガイは、その瞬間のことを考えることがどうしても出来なくて、カカシ相手に大泣きしていた。
それはまだ、二人とも10代最後の年齢で今と比べて経験も浅かった時の出来事で、そんな頃と比べるとガイも歳を重ね、思慮深くなったものだとカカシは思う。
涙を流せぬ程の悲しみを与える事が分っているのに。
どうしてその身を大切な人の前にさらけ出すことが出来ようか。
ガイはカカシの前で死ぬことだけはしたくないと言っているのだ。
鉢という囚われの中で生き、死して後はその骸の処理すら他人の手を煩わせなければならぬ金魚。
それをわが身に置き換えて考える時には、身震いするほどの恐怖が襲う。
誰が、その身の息絶える音を聞き、そして誰がその骸の処理をするというのか。微動だにせず冷たくなるだけの躯を見守り、その時、何を想うのか。
目の前からいなくなるという事実ですら心をえぐる出来事であるのに、その現実を視界に留めたならば、どれ程の傷がその心に刻まれるか、想像に難くない。
「知っているかカカシ。死に際を悟り、その身を隠す動物がいるという事を」
少しだけ元に戻ったガイの声は、ゆっくりと言葉を綴ってゆく。カカシは微動だにせず黙りこくる。
「……おれもそうありたいと切に願うのだ」
自身の傷つきの大きさを思い、他者の傷つきの大きさを思いやる。
そんな切ないガイの心を、是とも非ともカカシは言えなかった。
けれどそれでも何か言おうとする。ガイの気持ちに応えてやろうと口を開くが、すぐにその言葉を飲み込んだ。
閉じた目を開け空を仰ぐ。
結局カカシは何も言えなかった。ガイも、何も言わなかった。
2人はただ黙って、肩を並べていた。
刺すような光りの月が背を照らす、静かな夜の事だった。
(終) |