からっぽの石
「別の生き方を選んでいたなら…」
いまわの際に一人の男の口からこぼれ落ちたその言葉は、この場に立ち会い死を見取った仲間を暗い気持ちにさせた。
正視する事をためらう程の凄まじさを呈している光景。幾人もの忍が折り重なるように倒れ、真上から赤黒い塗料をばらまいたかのような惨劇が、そこにはあった。
なまぐさい血と肉の匂い。
その場にいる誰もが似たような場面に遭遇しながらも、どうにかくぐりぬけてきた。だからこそ今、生きてここに立つ自分がいる。そんなふうに過去、何度も見慣れているものだとはいえ、好んで経験したいと思う種類のものではなかった。
重苦しい空気が澱む。
けれど悲しみに浸る間も与えられずに、その場を後にし次の任務先へとその身を移していく忍が消え去った後に。
入れ替わるように、闘いの痕跡を自在に片付ける事を仕事とする忍が、作業という名の任務を始めた。彼らは何一つ残さないように注意深く、まるで箒か何かで掃き清めたかのようにその場を片付けて行く。
今回の任務は、何かを消した後だと特定の誰かにハッキリ分からせる事を目的としていた。全て意図的に、何を消し何を残してあるのか分かるように。
その為に一旦全てを取り去り、残しておきたいものを自在に配置する。
匂いで悟られぬよう、消したい事柄は髪の毛一本に至るまで見逃さぬように片付けてゆく。
これは敵に対する警告だった。ここに忍がいて闘いがあり血が流れ、その後、わざと敵の忍のものだけを残し闘った相手が誰なのか、その証拠となるものは取り去ったという事を敵に分からせる。
敵の頼みとする部隊は壊滅していてもう誰も助けに来ないのだと分かるように。
対峙した者の強固な存在を示すように。跡追いは無駄なのだと分からせるように。
その為に皆、黙々と作業を続けていた。
そうして、林の中に不自然なほど広々とした空間が人為的に出没し、この場の任務は全て完了する事になるのだ。
カカシはたったひとりきりで、その様子を遠めに眺めつつ、全てが片付くのを待っていた。
「別の生き方を選んでいたなら…」
今も耳元に残る声が、こだまのように同じ言葉を繰り返す。
人生の最後の言葉で自分の生き様を否定するという、そんな生き方。その場にいて最期に立ち会ったカカシは、けれど表情ひとつ変える事はなかった。
そして目の前で手際良く進められていく、命の残骸の後始末を、さほど関心もないまま、見つめていた。
まるでモノか何かのように片付けられていく肉塊の破片を、目に止める。闘いの凄惨さを物語る、吹き飛ばされて持ち主の体から離れた、血に染まった体の一部だった。
ああ、あれはきっと。
カカシはその前日まで行動を共にしていた、気の優しい忍の事を思い浮かべた。背が高く、年は、まだ若かった。その程度しか、彼については認識を持ってはいなかった。
昨日、休息していた時、暇潰しに仲間の忍達に、むりやり好きな女の名前を言わされていた男だ。聞くつもりでは無かったが、話し声が耳に入ってきた。ふと顔を上げた先に、恥ずかしいのか、真っ赤な顔をした声の主が見て取れた。
あいつも殺られたのか。
その女と寝たのかと冷やかす年かさの忍に対して、さらに真っ赤な顔をしながら、告白すらまだなのだと消え入りそうな声で言っていた。照れ隠しのつもりなのか、頭をしきりと掻いていた。
いかつい体の割にその手の大きさが華奢だった。体と手の大きさのアンバランスさが印象的だったので、カカシはなんとなく覚えていたのだ。
引き上げて行く忍の中に彼の姿を見ないと思ったが…やはり。そうだったのか。
ならば自分の気持ちを伝えられなかったという片思いのまま、無念の気持ちで逝ったのだろうか。
「別の生き方を選んでいたなら…」
そう言い残してこと切れた忍も、そして今は肉の塊と化した彼も、生き方を後悔したまま、女へのそしてこの世への未練を残したままでその最後を迎えたのだろうか。
何故気になるんだろう。どうして思い出したりするんだろう。それほど親しい忍でもないのに。
個人的な話を耳にしたからなのか。伝えられなかった未練な思いに同情したのか。自分らしくもない。こんな話は今までに何度も耳にした。今更、何故気になるんだろう。
浮かんでくる気持ちに訝しさを感じつつ、カカシはただ、目の前の様子が変わって行く様を見つめ続けている。
誰もが悲しいと思う瞬間に、何に対しても動じずにいたいと願った昔の自分が脳裏に浮かんだ。
気持ちを外ヘ出さない。それは忍の鉄則だ。それを忠実に守る。いつでも冷静沈着で、その場の感情に流される事無く任務遂行に忠実。そう自分を戒めて、それを守って生きてきた。
何故こんな事を今更ながら思うのか。目の前の光景など珍しい事でもないのに。
いつもならば意識して別の事を考えようとするか、思考自体をやめてしまう。考えても無駄なのだと知っているから。
けれど今日のカカシは、脳裏に浮かぶままに思考を任せた。気を緩めるとすぐ、あの年若い忍の顔が浮かんだ。今はもういない、彼の顔が。彼は最後に何を思ったのだろう。
そして。どうしてその事が、こんなに気になるんだろう。
目の前では、地面に落ちたモノをあらかた片付けた忍たちが、今度は周りの木の幹に付いた人の跡形を消し始めている。
今ここで、生きていた痕跡全てを消されてしまう者たちがいた。
自分の命を自分で守れなかったものは、この場所ではそうなるしかない。それが彼らの受けた仕事だった。
けれど。頭では分かっていても割り切れない感情もある。
そんな感情に身を任せて心を動揺させたりしないのは、忍としては当然の事だ。なのに。何故、気になるんだろう。
カカシの心は、重い気持ちで一杯だった。
こんな時には。一つの方法として、そう、たとえば。泣いてしまえばこの気持ちは楽になる。経験がそう、教えてくれる。
カカシは溜め息にも似た息を吐く。体が重く、吐く息までもが濁って、汚くよどんでいるようだ。
たぶんこういう気持ちを悲しいという、筈だった。
忍になった時から、いや、忍になる前から、人一倍、悲しみを感じて痛みを覚えていた。どちらかというと敏感な部類だったと自分では思う。けれど周りで日常茶飯事のように起こっている悲しみがもたらす痛みに耐えられなくて、感情が表に出ないように、心に鍵をかけた。遥か昔の事だ。どんな場面に遭遇しても、いつも平静でいられるように。
それでも最初は、悲しみを感じていた筈だった。鍵をかけても流れ出てくる感情があった。そうだ。たぶん。そうだった。
まるで他人ごとのように、カカシは記憶の流れ出るままに任せ、昔を想う。
そうだ、最初の頃は押さえ切れない悲しみやつらさ、押さえていた心からこぼれ落ちた気持ちを感じる事が出来ていた。
けれど、こぼれ落ちたものを拾い上げて捨てていくうちに、どんな事があってもいつも平静でいられるようになっていた。
気持ちまで揺らぐことはない。どんな事が起きようとも慌てたり取り乱したりする事もない。ただ、あるがままを、飄々とした表情で見つめるだけだ。
カカシは冷えきった手を少し動かした。この場の気温よりも冷たくなっているような指先は、曲げると軋むような音が鳴りそうなほど、固くこわばりを持っていた。
目の前では、人の存在の残る木の上皮をはがし、それでも跡が残ると判断された樹木は、大小かかわらずその場から持ち去られていった。忍たちは目だけで会話を交わし、自分に科された仕事を淡々とこなしていく。
どんな場面でも、平静でいる。それは心が呼吸を止めているからなのだ、という事に気が付いたのは幾つの時だったか。それが忍として一人前であるしるしだと、自ら望んだ事であっても。
悲しみを感じる事をいつの間にか失ってしまっていた。今まで開いていた記憶の引き出しに触れる事すら煩わしく思い、感じるという事に手を伸ばす事を嫌った。その日その日を過ごすだけで精一杯の激務の中で、自分という命を保ってゆくにはそうするしかなかった。
自由に感情を表わせない。表現方法を無くしてしまった。
気持ちに左右されたくないという望みが叶って自分を振り返ってみれば、自分の中には悲しみや痛みがなかった。それが自分で自分自身を殺してしまう事なのだと、その時になってやっと気がついた。
悲しい筈なのに。持ち合わせている過去の記憶すら、数も少なく頼りない。
悲しい哀しい痛いつらい。
目の前で起こる事を、今までに経験した記憶の引き出しの中身と当てはめて、いろんな感情を頭で理解する。そうして分かったその感情だけが、すうっと意識を横切って、゛今の状況はきっと悲しいというのだろう゛と推測するしかない事に気付いた。
棄てておいて勝手な話だ。
けれど無くして初めて、今、求めていたりする。
悲しさを感じる心を。本当に、勝手な話だ。
どうしてこんなに、重いんだろう。
吐く息までもが重い。その息が体を取り囲み、よけいに重くしているようだ。
たぶん悲しいのだろう、と考えなくてはいけないという事自体が悲しい事なのだろう。
棄てた悲しみがないと悲しんで、求める。記憶にある気持ちに、ひとり沈み込んで、あれほど嫌った悲しみを探している、馬鹿な自分が自分の中にいる。
今の自分は、悲しいのだ。
こんな事を思うのは、たぶんそう、感じていないと思っていたのは自分の勘違いで、本当はずっと延々と体の中へと取り込んでいたからなのだろうか。
見ていたもの全部が蓄積されていたのだろうか。そして体の中に一杯になって、溢れ出てきた。そうでなければ今、こんなにも心をわずらわされる事もない筈だ。
感じていないのだと、誤解していたのかもしれない。
どうにかならないのか、この重さは。
背中に下ろせない荷物を背負っている気がする。荷物を背負わないようにする為に感情を放棄した筈なのに。
重い。重い。どうすれば軽くなるんだろう。どうすれば。
たぶん。今は悲しい時なのだ。なのに泣けない。一筋の涙すら流れ出す事も無い。どうしてなのだろう。声を上げ大粒の涙を流す、そんな風に泣けなくても、ほんの少しでもいい、涙という名のものが流れ落ちてくれたら。
悲しくて痛くて痛くてつらい筈なのに、涙が出なくて、泣けない。そのことがまた、つらい。そうして積み重ねられた気持ちが体に溜まって、疲労した時のように、重いのだろう。
気持ちという目に見えないものが見える形となって、そしてカカシの体を動けなくさせる。
悲しい時には勝手に泣けてくるものなのだと、言い訳のように呟きながら、泣く男を知っている。
忍にあるまじき行動で、けれどそれを咎めだてる者は、その場には誰一人としていない。皆、黙り込んで、男の泣く声を聞いている。
誰もが皆、お前のように泣きたいんだ。自由に感情を表わせるお前を羨ましいと思っているんだ。
なによりも俺が、そう思うから。
泣いているお前のそばにいて、お前の涙を見ていたら、お前の目から溢れ出る涙が、俺の痛みの身代わりになってくれている気がする。
カカシは、一人の男の姿を想う。
ガイ、いつもお前が代わりに泣いてくれているようだと、今更ながら思うんだ。
泣いているお前を見て、重かった自分の心が軽くなって安心するのを感じるんだ。
お前の涙は、俺の涙だ。
涙を流せずに泣いている、そしていつもお前の涙を借りている、そんな俺がいる。
小さく丸くなって、音の無い声を上げて泣いている俺が、俺の中に常にいる。
お前はその事を知っているのか、気付いているのか、ガイ。
知っていて、俺の隣で、泣くのか。
「別の生き方を選んでいたなら…」
苦しい息の下、残った命をかき集めて吐き出した、後悔と慚愧の念のこもった声が耳に残る。
死に際に何を思っても、その反対に何も思わなくても。この後、荷の一つとしてこの場から運び出され、目立たない場所で荼毘に付されモノ言わぬ形となって里へと帰るのだ。
あの若い忍は好きなひとがいるのだと言っていた。そのひとは同じ忍だったのだろうか。里に住む者だったのだろうか。それとも里以外の別の場所の…。
こんな事を思う自分はたぶん悲しいのだろうと、カカシは溜め息をつく。たぶん。悲しいという感情すら沸かないけれど、たぶん。
この状況を見たら、何を思うのが゛普通のひと゛としての感情なのだろう。
ガイ。
きっと高い確率で、お前は涙を見せるだろう。仲間を救えなかった力の無さを悔しがり、泣くのだろう。大声を上げないまでも、体全体で泣き声を上げて悲しんでいる事が、その場にいる全ての誰もに知られてしまうほどに。
何故、これほど苦しいのだろう。泣けないという事がこんなにも悲しい事だったなんて。
なのにその悲しい気持ちすら、今の俺には想像するしかないなんて。
今になって分かる。
悲しみという気持ちは忍として生きていくこの身には不必要なモノなのだ、棄てるのが強さだと考えていた。けれど本当は、それは違ったんだ。それは強さなんかじゃない。
なりふり構わずに泣いている男の方が、本当は強いんだ。
自分の生き様すら表に表すことをためらい、隠し、切り捨てて生きる。それは決して強さではなく、弱さなんだ。
自分自身を棄て去って、感情すら持てずに泣くことすら出来ないのは、弱いという事なんだ。
「別の生き方を選んでいたなら…」
悲しいという気持ちを、棄ててしまった心を、もう一度手にするような、それまでの生き方を全て変えるような。そんな事は可能なのだろうか。
そんな勝手な望みは、叶うのだろうか。
頭に浮かんだ事を、肯定も否定もする気もないまま、カカシは、ただぼんやりとその場にいた。
草一本生えていない空間が、目の前に現れ出た。それを見てカカシは思い出したように忍犬を数匹、口寄せする。
どこからともなく走り出て来て、地面に鼻をこすりつけ人の存在を探していた彼らだが、いつまでたっても自分たち以外の匂いをかぎ取れずにいた。しばらくその場をウロウロしていたが、やがて、煙と共に一匹、また一匹と消え失せていった。
それを合図に、綺麗に片付けられた空間へと人の一部が多数、モノとして投げ込まれる。
この空間は誰の支配下にあるのか、それを知らせる役割として、意思を持たないただの肉の塊は、人としての扱いすらされずにその場に放置される。後から来てこれに気付く忍も、その場の様子を察知したなら、あえて棄てておくに違いない。
そんな世界に住む者に、生き様の是非を問う者など、誰もいない。
ただ、自らが思うままに生きて、そして後には何も残さない。
ああ、そうか。
カカシは憂鬱そうな表情を浮かべた。
あの年若く優しい忍は、自分の気持ちを告げるつもりはなかったのだ。たぶん。
今だけを楽しもうとするのなら、胸に秘める想いを告げている筈だ。自分で伝えられなくても、その橋渡しをするお節介な仲間が、この里にはあちこちにいるのだ。けれど彼は、敢えてそれをしなかった。
全てを終え、忍たちは散り散りに引き上げていく。
重い。体が重い。
カカシは立ち上がった。手の指先も足の指先も冷たい。なにより体の芯が氷のように冷たく重い。
もつれそうになる足を引きずるようにしてカカシは走った。これから俺はどこへ向かえばいい。
誰かに訊くのではなく、その答えは自分で見つけなくてはいけない。けれどそんな事を考える時間は、後どのくらい残されているのだろうか。
とにかく重い。体が重い。
お前の泣いている姿が見たい、ガイ。そうしたら少しは、楽になるのに。
求めるその男は今どこで何をしているのか。カカシはそれを把握していなかったし、もし仮に知っていたとしても。今のカカシには、自分の自由になる時間など無かった。
お前に、会いたい。
重すぎるよ、ガイ。どうにかしてよ。
目の前にいたならば決して言わない言葉が、唇から零れ落ちてくる。
重い気持ちのままで走ってゆくカカシの右頬に、その時、チクッとした痛みと共に生温いものが伝い落ちた。
横へと伸びていた枝で、切ったようだ。
カカシは走りながら手で頬を撫でる。指先に紅色の筋が滲んだ。
痛い。そうだ、こういう痛みはまだ分かる。
もう一度、傷の上へと手を押し付けた。そして傷を執拗に何度もこすり上げた。
傷が広がり、頬をさらに生温いものが濡らしてゆく。
俺の涙は、たぶん。
痛みと共に流れ出てくる、濃い紅の色をした雫の感触を感じながら、とりあえず安堵する。体が軽くなるのを感じる。
そしてカカシは、確信にも似たものを感じ取る。
自分の涙は。今はもう、こんなふうにしか、表現出来なくなっているのだと。
(終) |