壊レルモノ ノ カタチ
濃い茶色をした泡が破れて、ほのかに音を立てている。ガラスの器の中で波打つ液体が、湯気を立ち昇らせている。
挽いたばかりのコーヒー豆の香ばしい匂いが部屋へと放たれて、いまだ闇で遊ぶものたちの重い身体を、優しい風で揺り起こしている。
最後の一滴が落ちてゆくのを見届けて、サーバーからコップへと液体を移し終えたカカシは、片手に一つずつ持つと寝室へと移った。
床の上へ直接腰を下ろしていたガイは、何か思う様子で眉を寄せ、ただ一点だけを見つめていた。片方の足だけ立てて、そこへと載せた腕で頭を支えた格好。カカシが戻って来た事に気付いて、見上げた。けだるそうな、眼をしている。まばたきを2・3度して、目を細めた。笑みの浮かぶ、色彩へと変化してゆく。
「匂いで、起こされた」
相変わらず腕でその頭を支えたまま、ガイは差し出された大きい方のコップに手を伸ばした。
カカシの手には大きく見えたコップもガイの手に渡ると、同じそれでも、さほどの大きさをも感じさせることはない。
「すまん」
礼を言って受け取るガイは、腕から頭を離し、前かがみの身体を元へと戻して、ベットへその背を預けた。
コップの中ではキャラメル色をしたコーヒーが、揺れている。ガイのものはミルクで割ってあるようだった。香りをまず、味わう。自然と言葉が漏れた。
「お前の淹れるものは、いつも旨い」
窓辺近くに置かれた、古びた木製の椅子へと腰をかけたカカシは、コップに口を付けてひとくちすすると、脇に挟み持ってきた新聞を開く。押し黙ったままで、返事はしない。
ガイは底の丸いカップを両手で包むように持つ。湯気と香りはゆらゆらと立ち昇って鼻をくすぐる。
ガイの身に付けている緑色の上下つなぎは、腰のあたりまでしかその身を覆ってはいなかった。香りは、裸のままの上半身をも柔らかく包んで、気持ちを穏やかなものへと導いてゆくようだった。
新聞を読んでいるカカシの目が、上下にせわしなく動き続ける。楽しい出来事・悲しい事件・情報・読みもの・広告etc。それらを、全く表情を変えずに読みつづけていた。
ようやく昇り始めた金色に輝く陽の光が、窓の方を向くカカシのその顔を、鈍く照らす。その横顔は、ただ独りの時間を楽しんでいるという風に見えた。まわりのもの全ての介入を拒むような、見えない壁すら作っているようだった。
手の届かない遠くにいるようにも思え、見えているそのままの距離にいるようにも思える。それは、ガイがカカシといる時によく出会う、不思議な感覚だった。
部屋の中には、カカシが新聞をめくる音しか聞こえない。
会話がなくても、取りたてて息苦しいということはない。気を遣い、間を取り繕おうとしなくてもいい。そんな間柄。
けれど。
それを分かっていて今の沈黙を破るようにガイは、カカシへと声をかけようと思う。話をしたくないのなら、カカシは返事をしない。そういう男だ。
返事がなくてもいい。何かを話そう。何を話したかった。
天気のことでも、何でも。
何を話そう。そうだ、コーヒーのことを。話そう。
ガイは見なれた横顔に向かって、声をかけた。
「今も、何も入れぬのか?カカシ」
「そう。ずっとブラック」
小さいけれど、確かなカカシの声が返って来る。
「胃に悪い。何も食べておらぬのに」
「カフェイン?」
「せめておれのように、牛乳くらい入れてはどうだ」
「今更、気にしたって」
「今から気にしても遅くはない」
「いいよ」
「それにしても」
カップを両手で包んだままで、ガイはコップの縁を眺める。
「欠けている」
「子供じゃないんだから、注意して飲めば問題ないでしょ」
飲み口と反対側の縁が、数ヶ所欠けて小さくヒビが入っているところもある。とはいえ、カカシの家にあるコップの中では、これはまだマシな方なのだ。
「旨いものを飲んでいるのに」
「気分が台無し?」
「いつも、言っていることだ」
「買うと約束した覚えはないよ」
聞き取りにくいほどの小さな声だ。返事ともそうでないとも取れるような、ますます小さな声で、カカシはつぶやくように言う。
「―― いつかは、割れるんだ」
どんな高価なコップでも。どれ程、取り扱いに注意しても。
割れないものは、何ひとつない。だから。これでいいんだ。どれだって同じだ。
ふう、とカカシは見えない息を吐いた。
「かといって、割れないものには風情がないぞ、カカシ」
「お前がそんなに、茶碗にこだわりを持っていたとは思わなかったよ、ガイ」
「そういう訳ではないのだ、ただ」
ぬるくなって、その香りにも慣れてしまって。今は喉を潤すだけの液体と化してカップの中で揺れ動く。ガイは喉を鳴らして飲んだ。
「雰囲気というものも、味わう為の一つのスパイスだろう」
「スパイスね」
腹のあたりがペコッとへこむ。声にならぬ声で、カカシは笑った。
「お前らしい言い方だ、ガイ」
「今度、丈夫で綺麗なコップを買おう」
ガイは注意深く観察していたが、持ち手にもひび割れを発見し、持ち上げて下からさらに観察を続けた。
いらない、とカカシは消え入るように声を出す。
綺麗なものもそうでないものも区別無く、いつかは割れてしまう筈だ。
そういえば、愛着のあるものの方が、よく割れると感じるのはどうしてなんだろう。カカシは、ぼんやりと思う。
新聞の文字を目で追っているだけで、内容は流れて視界から消えていった。
「ああ、お前に買ってやるのではない。おれ専用だ」
ガイはまだ観察に余念がない様子で、底は大丈夫だな、と独りつぶやくと、又、両手で包むように持つ。
「置き場所を借りる、それならよかろう」
「入れものは、どれを使ったって、結局、味は同じだよ」
「俺は旨いものが飲みたいだけだ」
ガイは又、喉を鳴らして飲んでいる。羨ましいほどに旨そうなものを飲んでいるように見える。
つられてカカシもコーヒーをすする。
冷たくなってしまった液体が、喉を伝って胃の中へと流れ落ちるのが分かる。
その度に空の胃の荒れた壁が、更に荒れてゆくのを知る。カカシには、ガイが誉めるほど、この飲み物がさほど旨いとは思えなかった。
気に入るコップを使えば、少しでも旨いと感じるようになるのだろうか。
けれどそのコップも割れてしまうのだろう。割れて、買い直し、そして又、割れる。それの繰り返し。
「お前のも、おれが買って貸してやる。おれのものであれば、たとえ割れても、気にすることはない」
「いいよ、これで」
そう言いながらも、まっすぐに自分の方を見ているガイの視線を感じながら、それほど言うならそれでもいいか、とも思う。
それにしても、今日のガイは朝っぱらからよく喋った。カカシの邪魔をしないようになのか、それとも体の欲するままになのか、普段ならば一気にコーヒーを飲み干して、さっさとランニングへ行ってしまうのに。
ヒビの入ったコップを使うのも、今日に始まった事ではないのだ。今日に限って何故、ヒビ割れのことをしつこく言うのだろう。
まあ、いいか。そう呟くと、カカシは新聞をたたんで立ちあがる。椅子の上へとそれを置くと、ガイの視線に応えるようにガイを見返した。相変わらず、ガイはこちらを見ていた。
「おれはこだわり派なんだ、知っているだろう」
「牛乳で薄めている人が、いっぱしのコーヒー通みたいなセリフを恥ずかしげも無く、よく言うよ」
「そうか、そうかもしれんな」
カカシの言葉に、ガイはうなずいて少し笑った。そして、コップの中味をすべて飲み干した。
外からの光はカカシの座っていた椅子に当り、薄い影を作っている。見上げる空は雲一つ無く、新しい一日の始まりは、晴れわたる清々しさで彩られているようだった。
ガイは腰まわりにある緑の布を手馴れた様子で引き上げ、手早く上半身を覆った。床に投げ出してあるベストを拾う。
一見、いつもと変わらない、ガイの身支度。それを見ながら、カカシは、少しだけ違和感を覚える。
「ガイ、お前」
続きを言おうとして、カカシは口を噤んだ。
何か、妥協したくはないことがあるのか。そう、感じた。
昨日の夜の事だ。遅い時間に突然ガイは、カカシの部屋へとやって来た。カカシがまだ横になっていないのを知ると、一人でベットを占領し、すぐさま大イビキをかいて眠ってしまった。
一人でいるのを避けたいのか、ガイ。どうしてここへ、やって来たんだ。一体、何があったんだ。
カカシは顔の表情を変えずに、じっと見た。目だけで、問いかけた。
昨日来た時もそして今朝も、何かを悩み、考えているような風だった。自分では変わりなくしているつもりなのだろうが、いつもの顔とは違った、どこか浮かない表情を見せていた。
「なあ、カカシ」
腰に額当てを付けながら、躊躇無くガイは言った。
「形あるものは、いつかは壊れる。必ず、壊れる。それを知っていれば、何も恐れることはないのだ。そうだろう?カカシ」
それはカカシに向けて言っているようで、けれど自分に向けた、独り言のようにも思われた。
先ほどのコップのことか。カカシは眉をひそめた。いや、違う。また別の何かだ。やはり、ガイの心に引っかかって離れようとしない、何らかの思いがあるのだ。
お前は何を気にしている。壊したくないものとは、何だ。
物か。それとも人とのつながりか。それとも。何かまた、別のものなのか。
額当ての紐を重ね合わせ、入念に結び目を作っているガイの姿を見下ろしたままで、ガイの心の先にあるものが見えなくて苛立つ気持ちを表に表わさないように、カカシはそれと知れぬよう、小さく息を吐く。
ガイにしては珍しく、神経質な程の用心深さで額当てを結び終えると、くるりと前後を逆にした。
「だが、形の確かなものとは違い、形の無いものは、壊れる事はないのだ。元々、形が無いのだからな。壊れようがない。違うか、カカシ」
そう確信しているのか、それとも願望なのか。どちらとも解釈出来るような口調で、ガイは呟いた。
何に対しての言葉なのか、図りかねながら。カカシは探る様子で「たぶん」と言って、しばらく空白の時間を置いた。そして続ける。
「…形のないものは、壊れない。たとえ一見、壊れたように思えたとしても、形が無いんだから、それは壊れたことにはならないよ」
それが問いかけに対する答えになっているのかどうかは、分からないけれど。探るように、カカシは小さく囁くように言った。
「そうか」
ガイが、顔を上げた。
さっきまでの浮かない表情は消えていた。いつものガイの、晴れ晴れとした顔付きで、自信に溢れたものになっていた。
「また来ていいな、カカシ」
ガイは立ち上がると、腰に手を当てにやりと笑った。いつも通りの表情で、カカシを見ていた。
「普通は 『 いいか? 』 って訊くよ? 『 いいな 』 って決め付けるのは、お前だけだよ」
「来るなと言わぬところを見ると、お前、来て欲しいのだな、そうだな、カカシ」
強く言い張るその調子に、カカシは呆れて会話を放棄する。そんなカカシに目もくれず、腕を伸ばしたり指先の骨を鳴らしたりして、せわしなく動いていたガイだったが。
ああ、と思い出した様子で、
「コップを買ってやると言ったが、しばらく先になる、と思う」
声を落として、すまなさそうに言った。
「いらない。これでいいんだ」
そう言い捨てて、カカシは差し出されたガイの手の中のコップをひったくるように奪い取った。
台所へと向かったカカシの背へ、再度、訊ねる声がする。
「また来て、いいか?」
「イヤだと言っても、来るクセに」
嫌味混じりで言い放つカカシに対する返事は、返ってはこなかった。
なんだよ、もう行っちゃったのか。相変わらず、マイペースな奴だよ、お前は。不貞腐れた様にそんな事を思いながら、カカシは蛇口をひねった。
水が勢いよく流れ落ちて、真下に置いたコップから溢れて出てくる。それを、ぼんやりと見ていた。
新しいコップなんて、いらない。これをずっと、使うんだ。
コップなんて持ってこなくていい。
でも、必ず。ここへ来い。ガイ。そしたらまた、今日のように、きちんと豆を挽いてコーヒーを入れてやるから。
カカシの瞳が一瞬光ったように見えた。それはしぶきが跳ねた水滴だったのか、それとも陽の光の反射だったのか。
そしてすぐに、いつもの眠そうな目へと戻った。
カカシは蛇口を締めた。水が波打つ、濡れたコップを手にする。中に溜まっていた水を少しずつこぼした。水は糸のように流れ落ち、しばらくすると、空になった。
コップから流れ落ちた水は、カカシの手をも、濡らしていた。
雫だけが2・3滴、こぼれ落ちる。
まだ、使える。まだ、大丈夫だ。
カカシはヒビの入ったコップを、静かにそっと置いた。
(終) |