紅の華・紅の波

 身体を丸くして怯えている少女を抱きかかえて。ガイは追っ手の攻撃をかわしつつ、あちこちに仕掛けがなされているであろう何やら薄気味の悪い場所から去ろうとしていた。

 用心に用心を重ね、藪の中をひた走る。逃げて来た場所から少しばかり距離を稼ぎ、張り詰めた心を、ほんのわずかではあるけれども休めてもいいかと気を許した時、爆弾に似たものが足下の土中で破裂した。いやおうなしに、ガイは爆風と共に宙へと投げ出される。
 抱き抱えた少女の安全を優先し、その小さな身体を庇った為に、上手く受け身が取れなかった。
 強い衝撃と共に荒れた地面へと叩き付けられる。身体をひねり、腹から落下するところを辛うじて背中から地に転がった。
 打ち付けられた背骨に鋭い痛みが走った。手酷い苦痛にもかかわらず、ガイはうなり声一つ上げず、歯を食いしばる。身体に力が入るのを知りながらも、包むように少女を抱いた両腕には力は入れずに、柔らかさを保ったまま苦しみを感じさせないようにと気を遣った。
 そして植え込みの影へと身を潜め、その後ガイは微動だにしなくなる。

 ガイは夢を見ていた。
 柔らかく暖かく丸いものを抱いていた。
 ちいさなその生き物は、ガイの腕の中で小刻みに震えている。
 腕にぎゅっと力を込めると、震えが止まった。命のすべてを託しているという安心感なのか、ぬくもりがさらに暖かさを増してくる。

 おれが守る。

 ガイは、ぬくもりの塊から、眠る様な息遣いがこぼれ出るのを耳にしながら、そのちいさな頭を少しだけ撫でた。


 時間の経過が把握出来ない。
 飛ばされて地面に叩き付けられた事は覚えている。少女になるべく衝撃を与えないようにと、体を張って守ったのだ。
 それから意識を失ってしまったのか。
 ガイは自問自答する。

 おれは一体どうしたのだ?

 さっきから少女を抱いた腕と腹のあたりが、何やら生暖かい。その上、濡れた感触がある。
 抱いた少女は相変わらず丸い。けれど生き物の鼓動をしていない。息遣いすら聞こえてはこない。
 それは、いつの間にか丸いままの姿で、冷たく重くなっていった。


 おれはまだ夢を見ているのか。
 それとも、夢だと思っている事が現実なのか。


 体を誰かに触れられて、気付いてガイは目を開いた。
 誰かがいる。
 見上げた。
 アスマが、横に立っていた。使い慣れた短刀に付いた血を、服の袖でぬぐっていた。

 何だ。何故、ここにいる。自分を助けにきたのか。
 だが、今回アスマとは行動を共にしていない。別の任務へ行っているのだと聞いていた。

 何の為に、ここにいる。
 訝しげにガイは考えを巡らせる。何故、ここに。

 その時、頭上でアスマが舌打ちをした音を聞いた。気付かれてまずいとでも言いたげだった。

 何だ。何故、舌打ちをするのか。
 まあいい。
 今は、アスマが何故この場所にいるのか詮索する事よりも、この場から去るのが先だ。
 急ぎ立ち上がろうとしたガイは、自分の両腕が血に染まっているのを見た。

 おれの、血か?
 違う。おれのものではない。背中に打撲の痛みはあるが、怪我をしているわけではない。
 では、誰のものなのだ。

 口に出すのも煩わしいと言いたげに、アスマは短く吐いた。
「ガイ、お前は助けろと言われたのだろう。だが俺は、殺せと言われた」
 ガイは耳を疑わずにはいられない。
 殺せと、言われた、だと?

「アスマ、お前が娘を」
 ガイは、少女が先ほどから既に、息をしていない事に気付いていた。
「生きていたものを、お前が手にかけたのか」
 さっきからおれの腕と腹を生暖かく濡らしていたのは、彼女の血だったのか。
 信じたくないと思いながらガイはつぶやく。

 アスマはそれには答えずに、ガイから少女を引き離そうとする。
 ガイは拒んだ。
 アスマは構わず、少女の胸元を探る。何かを探しているようだった。

「何をしようとしている?」
 ガイは訝しがりつつ、アスマに対して背を向けて、少女をアスマから守るようにする。そして、動かないちいさな身体を大事そうに抱え直した。

「渡せ。俺が連れて行く」
 ガイの腕を引き、アスマは冷たく言い放つ。
「ガイ、お前の仕事は、ここまでだ」

「必要ないものは、置いていくんだ、アスマ」
 どこからともなく、カカシの声がした。
 必要なものだけ、持って帰る。
 必要のないものは、置いていく。

 次の瞬間カカシが二人の前に現われた。
「ここにいたのか。それで、鏡玉は見つけたか」
 アスマは焦りの入り交じる声で答えた。
「いや、見つからない」

 ガイは知っていた。少女が、そのちいさな右手で片時も離さずに握りしめていた、秘宝と呼ばれる鏡玉の存在を。

 探しものの所在がどこにあるのか、カカシは既に分かったようだった。
 ガイの視線の先をたどり、カカシの視線も少女の右手の上で、ピタリと止まる。
 握りしめられたままの少女の手は固く閉じ、容易には開かない事は見ただけで分かった。
 指を切るか。手首から切り落とすか。
 そんなカカシの思惑がガイにも分かる。

「カカシ、お前。知っていたのか、おれが助け出してそして」

 そう問うガイに、カカシは答えない。
 代わりにアスマが口を開いた。
「厳重な警戒網の中、お前でなければ連れ出せない。俺は追っ手を排除する為に、そして邪魔なその娘の命を奪う為に、待ち伏せを……」

 アスマが最後まで言うのを待たずに、ガイは、まばたきもせずに一息で言う。
「助けるのがおれの役割で殺すのがアスマの役割で、そして奪うのがカカシ、お前の役割か」

 身を賭して護ろうとしたものを、こんな形で失う事になるなんて。
 ガイは口にする言葉ひとつない。

 三者三様。それぞれの任務。それぞれの役割。
 それぞれに命じられた内容を、ただひたすらに片付けてゆく。
 何も考えない。自らの想いを介在させる事など、許されるはずも無い。それが使命。

 ただそこに突っ立っているガイは、カカシに促され、壊れ物を扱う様にゆっくりと、時間をかけて丁寧に、少女を地面へと寝かせた。
 仰向けにされた、まだ幼い彼女の、ふっくらとした頬は、彼女の命がまだこの地にとどまっているのではないかと思えるほど生き生きとし、そしてまた、これから咲こうと待ち構えている、紅い華の蕾の様にも思えた。

 ゆらりと立つガイを押し退けるようにして、アスマは少女の前に膝を付く。固く握った指先に手を触れた。

 アスマは、目の前の少女がガイに対してどれほど心を開き信頼していたのか、そしてまた同様に、この少女に対してガイが持つ想いについても、全てとはいわないが少なからず知っている。
 顔すら知らない間柄から、強い信頼を交わすようになるまでには、かなりの時を費やした。
 その甲斐あって、誰もが見つけられなかった秘宝の在りかも知るところとなった。
 そんなガイの長期に渡る潜入と探索の日々を知るのは、アスマだけではない。カカシも充分、知っている。
 その上で、二人は使命を帯びてここへ来た。
 けれどガイだけが、アスマ達に命じられた使命を知らず、また、結果こうなる事など、これっぽっちも予想だにしていなかった。

 おれが、守る。
 そんな言葉を想ったのは、ついさっきの事なのだ。
 おれは、何を守る事が出来るというのか。こんなおれが、一体、何を守れるというのか。

 アスマはガイの顔を見もせずに、ただひとこと言った。
「恨むなよ、ガイ」

「恨むなど」
 今はアスマの顔すら見る気も失せる様子で、ガイはただ、地面に横たわる少女の亡骸に視線を落としていた。

「そんな目で見るな、ガイ」
 耳元でカカシの声がする。
 そんな目で見るな。
 もう既に、ここにはいない少女を。
 そして。
 お前を陥れた俺たちを。
 そんな目で見るな。

「何も見てなどおらぬ。ただ、ひたすらに、空虚なだけだ」
 何も見てなどおらぬ。
 無表情とも取れる顔をして、ガイは少女を見下ろしていた。

 これ以上傷付けたくはないのか、アスマは短刀を脇に置き、力づくで少女の手を開こうとしていた。
 けれど、秘宝は秘術に守られている為か、指先を強く開こうとすればするほど、そのちいさな指先は石の様に固くなってゆく。
 焦りはじめたアスマの隣りへ、カカシは片膝を付いた。そして、アスマの短刀を手にした。
 あたり一面に、肉と骨を切る鈍い音が鈍く響く。けれども音は、すぐさま、何もなかったかのように一瞬でかき消えた。
 鮮やかな紅い血が、少女の手首を伝い落ちる。
 その紅さは、ガイの瞳に映し出された。そしてガイの漆黒の瞳の中で、更に鮮やかな紅の波へと変わった。

(終)

2006.10.12