春 塵
木ノ葉が互いにこすれ合う音が鳴る。谷からおりてくる風に吹かれて勝手気ままに鳴る。
時には歌うように、時には話すように。そして時には泣くように。
そんな木ノ葉が鳴る隙間をぬうように、かすかに、そして密やかに、花びらの揺れる音がする。その音に、ガイは耳をそばだてる。
少しの酒と食糧を携えて、花びらの囁く小さな音を載せた風に導かれてここまで来た。奥へ奥へと導かれて来た。
ずっと続いていた緑の木立が途切れた途端、突然、目の前へと桜の群れが広がった。
薄紅色がぼんやりと、けれど空間を占める広さで圧倒的に存在を示し、浮かびあがる。宵闇の中、薄いグレーの空間は、ここだけが花びらの色どりによって、ほんのりと明るく変化して見える。天へと伸び上がる木々を飾った、淡い色彩。山のあちこちを春色に染めあげて、遠くで静かに、揺れている。
修業のために森へと入ることは多いけれど、このように花だけを目当てに森へと入る事など殆どない。
美しい。その言葉すら途切れるほどに、山桜は人目にふれぬ山の奥で、ひっそりとけれど華やかに、満開の花を咲かせていた。
ガイは全てを目に映す対岸の高い木に席を取り、喉を潤し腹を満たし。暫くして訪れるほのかな酔いは、疲れを引き出し、まぶたを重たくさせてゆく。止めることは出来ずに、自然の流れに身をまかせ、ゆったりと眠りの淵へと落ちてゆく。
頬をなでる風に漏れ出す息は、いつしか長く、そして深いものへと姿を変えた。
眠る身体はいまや大木と同化し、大地とそして天地と混じり合う。透きとおる存在に、より近くなりつつある。
あいかわらず、風は体のそばをすりぬけて舞っていた。
この場所だけでこだまする薄紅色の囁きは、いつしか風に飛ばされて、舞うように身体を散らして地上で重なり合い、土の蓐へと抱かれ眠る道を辿る。
今はまだ固く身を閉ざしているつぼみも、開花してのちには遅かれ早かれその後を追うのだろう。そして土の中で透明へと変わってゆくその身を大切に守るように、木ノ葉の衣がそっと包むのだろう。
そんなふうに花も実もそして木ノ葉も、全てはいずれ土へと還る。
冷気を含んだ風ですら、戻る場所は生まれ出た時から定められているはずだった。
今、優しい笑みを浮かべ、静かに眠るガイの身体も心もそして記憶も、まわりで息づくものたちと同様に、いつかは土へと還るに違いない。
木々に囲まれ、木ノ葉の鳴る音が里に響いている。
木立を揺さぶって大きく風がうなっていた。土を覆い隠しているこぼれ落ちた木ノ葉も、その風に追われるように走り始める。
地をかすって空へと駆け上る風は、木々だけでなくガイの黒の髪に遠慮なく触れ、ガイの眠りをさまたげた。もう既に、陽は暮れ落ちている。
闇は温もりの残る春の野を、冷たい感触へと変えていた。
目覚めてガイは、少し身体を震わせる。
刺すように照らす天空の月を見上げてその高きを見、時を過ごしすぎた事を知った。
急ぎ地へと降り立つと、手に触れる幹を数回、撫でた。
この場所を覚えていよう。そしてまた、ここへ。
言魂の残響は、その姿が消えた後も暫くの間は、息をしているかのように、その場の空気を温めていた。
けれどその温もりも足跡も、やがて闇の冷たさと漆黒に支配されてゆく。
そしてあとに残されたのは、薄紅色の残り香だけだった。
明かりひとつない中で、春の野に短かい命を謳った香りだけが、ほのかに匂いを放っていた。
(終) |