秋 霖 しゅうりん
胸にかけられた布団がその呼吸に合わせて上下している以外は、動く気配を感じさせる事のないカカシの体。
まったくといっていいほど音のない、静かすぎる部屋の中で。眠り続けるカカシに寄りそうように、ベットの横で
ガイは独り、うずくまっていた。
カカシの頭を包むように覆った自らの手の上に、額を落として。静かに。
ガイは涙を流していた。
イタチによる瞳術の所為で意識を失ったカカシに対し、里の医療班はその意識を取り戻す為の、確実な術を
持ち得なかった。治す方法が見つからない
今、治療という名の施術をほとんど為し得ない病院に、その身を置いていても仕方ないという理由で。
結果、カカシは自宅療養へとその身を移し、いつ来るとも分からない、当てのない目覚めを迎えるその日を待
つこととなる。
ガイは、意識の回復が見込めない友の容態をもどかしく感じ、思い煩いながらも、その間も絶え間なく課せら
れ続ける任務を淡々とこなす、多忙な日常へと戻った。
たった一人の忍が動けないという事で、けれどそれがカカシという上忍である為に、彼が本来処理するであろ
うランクの高い依頼は、他の者へと振り分けられる。ガイはその中でも特に難度が高く、手間を要する為に敬遠
されがちな任務を率先して受け、激務の中へとその身を置いた。
今の自分は何を為すべきか。それだけを考えた。
したいことではなく、すべきことを再優先に。
目の前の任務だけに忠実に、ガイは次々と、ほとんど休みなしに任務をこなしてゆく。いない者の分まで一人
で背負おうとするように、ただ、働いた。
その姿は、常に落ち着き払い冷静さを伴っていて、どんな困難な事態に対しても的確に対応し、苦慮する同輩
や部下を導いてゆく。
ドアを何枚も挟んでいてもよく通る大きい声も、ボディーリアクションもいつも通り意味不明なほど大げさなままで、
全く変わりはしない。はた目には、心配事など何もないかように、その姿は映った。
カカシの倒れた事など眼中にないというかの如く、忍としてその信じる道を実践してゆく。
ただ、数名の者は、ガイが、その仕事の行き帰りには必ずカカシの家の前を通り、部屋を見上げているのを知
っている。立ち止まり、ただ黙ってじっと見上げているその後ろ姿は、見上げているガイの心と同様に、見かけた者
の心をも、悲しく、そして堪らなく不安な気持ちに追い込むのだった。
陽が落ちて月がその冷たい光を輝かせる頃、任務先から里へと戻ってきたガイは、その足をまっすぐカカシの家
へと向けた。
倒れてすぐ見舞いに行った後は、行くのを遠慮していた。カカシの身を心配した客が、来るだろう。だから、自分
が行かなくても、誰かがカカシの横にいてくれる。そんな理由をもっともらしく言って。
けれど、本心は。
目にしていたくなかったのだ。カカシがいつまでも眠り続ける、その姿を。
やがて、自然に目を覚ますのではないのかと、淡い希望を抱いていた。願ってもいた。しかしいつまでたっても、
その日は来ない。そして来る気配も全くなかった。
時間だけが、ただ過ぎてゆく。
カカシの家の戸を挟むようにして立ち、予断を許さない事態が起こる事に備えてこの場所を警備している2名の
下忍に対し、ねぎらいの言葉をかけると、ガイは部屋へと入った。
前に来た時と、全く変わらないカカシの寝姿がそこにある。
入り口近くに立ったまま、様子をうかがう。胸の位置だけが静かに上下している姿が見て取れる。
医療班の男が、終わったばかりの点滴を外し、使っていた背の高い棒を部屋の端へと寄せ置いた。
カカシは現在、日に三度の点滴溶液だけで、その命をつないでいる。水分と栄養と。強制的な、そして唯一の
医療行為。「どんな具合だ」
「変わりありません」
「目覚めの兆候は」
「ありません」
変化がない事に、喜ぶべきなのだろうか。それとも、何も変わらずにいる事を憂えるべきなのだろうか。カカシが
寝ついてからもう既に、7日以上が経っている。その間何も変化がないという事は、今後ともそのままでいる可能
性が高いということなのか。ガイは苦しげな表情を浮かべる。
医療班の男が出て行き、二人だけになってしまうと。
ガイはおそるおそる、ベットへと歩み寄った。そして、カカシの顔をのぞき込んだ。何日も食事をとっていないと
いう割に、栄養成分が偏らない様に作られた点滴の所為なのか。偏食がちで小食で、どちらかというと痩せ気味
のいつものカカシの顔よりも、どことなく色艶がいいように見えた。見慣れているカカシとはほんの少し違う事に、
ガイは戸惑いを覚えた。
時が止まったようなこの部屋の中で。ガイは動かずに、じっとカカシを見下ろし続けている。カカシの眠っている姿
を、このように長時間見下ろした事が、過去あっただろうかと思う。
人前で素顔を晒すのを嫌い、ずっと隠してきたカカシが、マスクはしているものの無防備な姿そのままで、そこに、
眠っている。
ガイは何度も、だらしないその寝姿をカカシの前へと晒し、笑われていたものだ。けれどその逆は。
ありえない姿を目にしながら、ガイは心が波立つのを感じていた。深く息を吸い深呼吸して、冷静さを保とうと努める。
しばらくしてガイは、思い出した様にゆっくりと、その両手をカカシの頭へと伸ばした。
大きな手のひらを、額へと当てる。指先で、銀色の髪に触れ、優しく包む。
人の手のひらからは、生体エネルギーである゛気゛が発せられているという。
医療技術を持たない一般人の手から発される少々の気でも、キズや痛みの手当てというのならば、多少の効果
は期待出来るのかもしれない。けれど、意識のない者に手当てをするという事が、果たして有効なのかどうか。ガイ
には分からなかった。
それでもガイは、カカシの頭をその手で包んだ。視線を動かさずに、カカシの顔だけを見つめ続ける。そして、動か
ないカカシに向かって問いかけた。
お前の体はここにある。
こうして、呼吸も、そして心臓の鼓動も。生きているそれと、全く同じだ。変わりはない。
お前の体は、おれの、この手の中に在る。こんなに近くに、在るというのに。
遠い。
遠すぎるところに、お前は、いる。
何故、答えてはくれない。
何故、目を開けない。
何故、おれの前に、素顔を晒して、それで平気でいられるのだ。
ガイは、頭を包んだまま、人差し指と中指で銀色の髪を掬った。髪はガイの指先からさらりと流れ落ち、その動き
を止めた。
お前は今、どこにいる。そこから、何が見える。そこはどんな所だ。
里は見えるか。仲間は見えるのか。子供たちは、そして、おれは。
お前には、今のおれはどんなふうに映っているのだ。
そして。
おれに、何をして欲しい。
答えをくれ、カカシ。
ガイは下唇を噛んだ。唇を震わせながら、強く噛み締めた。
過去、互いの身を異なる場所へ置こうとも、どれ程その距離が遠くとも。
心痛める事はなかった。
命を左右する大傷を負おうとも、鼓動を感じて呼吸音を耳にしたならば、何も案じる事はなかった。
傷は、いつかは癒える。血を流し、息も絶え絶えになったとしても、その身は確かに、ここに在る。しかし。
意識を持たぬ体は、どこか遠くにいるような体は、いったい、いつ元へと戻るのだろうか。
本当に、戻るのだろうか。
カカシの髪も頭も体も、今、確実に、この手の中に在るというのに。何もかもが全て、まぼろしの様にも思えた。
この手の中へと、再び取り戻す事が出来るのか。どこへ行けば取り戻せるのか、誰もそのすべを知らない。
自来也が捜しているという唯一の希望ですら、確実なものではなかった。
今は、先の見えない底無しの渦の中にいるような気がする。カカシの身を思いやる誰の気持ちも。ガイも、
むろん。例外ではない。
何もしてやれぬ。
涙の雫がガイの目からこぼれ落ちてきて、カカシの布団に涙の跡を、丸く作っている。
溢れ出てくる大粒の涙を、自分ではどうにも出来ずに。
ガイは崩れる様に、床へと膝をついた。
カカシを包んだ手の甲に、自分の額を押し当てる様にして。肩を震わせた。
その頬を、その手を、とめどなく溢れ出てくる涙で濡らした。
これほど近くにいるというのに。
何故、答えてはくれぬのだ。
この手の中に在っても、遠すぎるお前は、いないのと同じだ。
意思を持たぬその身は、ここにいないのと同じだ。
今、この手の中に在るというのに、
お前は、どこにもいない。
お前を取り戻す為におれは何をすれば良い。何が出来るのか。
何も。何も出来ぬ。
おれはどうして、こんなに無力なのだろう。
お前に、何もしてやれぬ。
カカシを目の前にして、ガイが泣く。
その光景は大して珍しいものではない。
自分の身に起こった、うれしかった事・悲しかった事に対して、ガイが素直に涙腺を解放し、大きな体をまるで
子供の様に丸めて、肩を震わせてしゃくりあげている姿は、日常茶飯事だ。そしてガイのその前に、カカシがいる
という事も。
心の琴線に触れると、気持ちが納まるまでは泣きつづけるしか出来ないガイを。なぐさめる事もなく、理由を問
う事もせず、なだめる様に肩に手を置くこともせず。
ただ黙って、カカシはその涙が流れ落ちるのを見つめるだけだった。
困った顔をしていた時もある。ため息を繰り返す時もよくある。
けれどカカシはどんな時でも、ガイが泣き終るまで気長に付き合い、過去1度も、途中でその場を離れた事はない。
ただ黙って、余計な事は何もせず、泣いている自分を受けとめ見守ってくれているカカシの前だからよけいに、
ガイは安堵して自分に素直になることが出来ると知っている。
静かに目の前にいてくれる、そして自分に時間を分け与えてくれる、その事が嬉しくもあったし反面、申し訳なく
もあった。そしてそれに甘えている自分がいた。甘えではないと、カカシは言うかもしれない。けれど、少なくともガイ
は、それを甘えだと思っていた。けれど、今はそれしか出来ないのだ、そう思うことも甘えなのではないのかと、考え
る事もある。とはいえ、涙は自然に出てくるのだから、自分ではどうすることも出来ない。
だからいつか、カカシが困る時が来たならば。体を張ってそれに応えるつもりでいた。
けれど、ガイは、カカシの困っている時をみた事がない。なんでも器用にそつなくこなして、誰の手も必要としない。
やっと、その時が来たというのに。
大切な空間を持ち得た安心感と、それを作り上げてきたゆるやかで懐かしい日々を想いながら。その先はもう
来ないかもしれない、これからの日々を想いながら。
どうしていいのか分からない不安感と、どうなってしまうのか先の見えないカカシの未来と、自身の力の無さを痛感
しながら。
ガイは、拭いても拭いても新しい涙がこぼれてくるのを、こらえようともせずに。
いつまでも泣いていた。
おれは、どうして、こんなに無力なのだろう。
カカシ、お前に何も、してやれぬ。
(終) |