達筆 DE 内職
慌ただしく過ぎていった朝の忙しさも一段落。どことなくのんびりとした空気が街中に漂っていた午前中。
上忍待機所。10時38分。
部屋の真ん中で、下を向いたガイが筆を握り一生懸命に文字を書いている。横でカカシは本を読んでいた。手伝う風も無く。
その少し前。
ゲンマが大きな箱を抱えて部屋へと入って来た。
抱えた箱には未記入の白フダが山の様に入っている。
フダを何に使うかと言えば。アカデミー運動会の開会式の景気付けに、花火のようなものを上げたいという意見が出たのだが、悲しいかな予算が足りない。その代わりに白い煙が出るフダを多数仕込んで、気分だけ盛り上げるのはどうかと誰かが言い出した。
けれど、たかが煙のフダといえど多量に使用するし、子供には触らせる事がためらわれる危険な術式を使うので大人が扱わなくては、という話になり、けれどフダだけの為に上忍を当てるわけにもいかない。それでは、待機している上忍に作らせよう、という事になり、ゲンマが箱を持って待機所へ現れたというわけだ。
ゲンマが来た時には部屋には見た目誰もいなくて、けれど誰かいるような気配はする。「ちょっと失礼」
囁く様に呼ばわると、息をのむ様な小声と、何かを叩く様な物音が聞こえた。すぐさま奥の小部屋から紅とアスマが出てきた。
アスマの片頬が妙に赤い。
二人を見比べて特にアスマの事をじろじろと見ているゲンマに
「見るんじゃねぇ」アスマは一喝してみるものの、分が悪い。咳払いをして机に腰掛けた。
「…で、何か用なのか」
言われてゲンマは、箱をアスマの目の前へ置いた。箱の中身とフダの使用目的の理由は、適当にかいつまんで話した。
「分かったら、速攻、書け」
「俺は字が下手だ」
「読めりゃいいんだよ」
言い合いしている二人にかまわず、フダに興味があるらしい紅は、さっさとイスに座りフダを手に書き始める。
「書けと言うお前は、書かねえのか」
「俺は持って来るのが仕事」
「一枚でも書いて行きやがれ」
「ほら、紅なんて綺麗な字でスラスラ…」
ゲンマがつまみあげた紙を、アスマは取り上げる。
「これのどこが綺麗なんだ。ギュウギュウ詰めでせまっくるしい」
見てみれば、ちょっとかわいい丸文字風。
「丸く小さく書かないと、この紙に文字が全部入らないのよ」
紅は膨れっ面をする。
「…返してよ!」
アスマの脇腹をギュッとつまんで、部屋を出て行ってしまった。
「痛っ…てえな」
「あああ。大事なフダ書き職人が。アスマ、お前、責任取って全部書きやがれ」
「何だって俺が」
「何でもいいから早く書け。ぼやぼやしてたら間に合わない。今日の昼過ぎには揃えて出しておけと言われてる」
しぶしぶ書き始めるアスマだが。ゲンマは覗き見て溜め息をついた。
「つくづく、きったねえ字だな」
「読めりゃいいんだよ」
「…読めるより、使えるかどうかが問題なんじゃな〜いの」
呑気な声が聞こえた。ひょこっとカカシが扉から顔を出す。
そして、今書いたばかりのアスマのフダを、ひったくる様に手にすると、宙へと放り上げて素早く印を組む。
「ほい。……ぽん!」
音ひとつなく何も起こらずに、ただ、ひらひらと落ちてくるフダ。
カカシは不思議そうに
「印、違ってないはずだけどナ?ああ、改良型で、印ナシ自動発火タイプ?」
「自動発火タイプだけど」
術式をよく見てなかったと呟きながら、フダが落ちてきて床に付きそうな時にカカシは再度
「ぽん!……アレ?」
言ってはみたが、フダは文字を下にして床に横たわったまま何も変化はしなかった。
「うんともすんとも言わねえ」
チッと舌打ちしたアスマは、床のフダを足で踏みつけた。
たちまちアスマの体は煙に包まれる。もうもうと上がる白煙は、しばらくの間背の高いアスマの体を周りから遮断した。
「うわっ。前も後ろも…」
「使えないネ」
あっさり言ったカカシは、筆を持つと、サラサラと書き記した。
かすれた墨字を一気に書ききると、紙にふうふうと息を吹きかけて乾かしていたが、やがて宙へと放った。
「3・2・1…ぽん!」
ぽんと言ったのと同時に、微かな煙が上がった。ゲンマとアスマは口を揃え
「しょぼ〜」
蚊の息くらいの白煙は、しばらくひょろひょろと煙を上げていたが、その少ない煙すら、やがて風に飛ばされて消えてしまった。
「しょぼ〜」
二度も言われて、カカシはむっとする。
「足で踏むよりマシ」
「使えねえのは同じだ」
言い合うカカシとアスマに、ゲンマは半ばうんざりしながら
「どうでもいいから、早く書け」
カカシはアスマを見ながら
「使えないのを書いてもネ」
言われたアスマはそっぽを向く。
「お前に言われたかねぇよ」
ゲンマは時計を見つつ苛々しながら、二人の前へ箱を押しやる。
「ちゃんと使えるものを早く書け。上忍の意地にかけて」
二人は、嫌だという表情をあらわにしながら互いに独り言を吐く。
「何で空中で煙が出ねえ?」
「どうして煙が少ないのカナ」
「文字違ってるんじゃねえか」
「合ってる。間違うワケナイ」
「めんどうだな。こんな技、使った試しがねえ」
「言い訳だね」
「同じ術式で、何故こんなに煙の量が違うんだ」
「ワカンナイ。こんな形で使わないからなぁ」
「お前も言い訳」
「早く書けよ、頼んだぜ」
昼過ぎに取りに来るからとゲンマは言って、さっさと行ってしまった。
残された二人は、フダ入りの箱を互いの前へ押しやり、
「アスマ、書けば」「お前、書け」
譲り合いという名の押しつけ合いの精神を発揮していたが。
箱を動かす事にもめんどうくさくなってしまったアスマは、自分の前に箱が置かれたままでタバコを取り出し、灰皿のある場所へとのろのろと動いた。
カカシも指定席へと移動する。自分のお気に入りの席ではないと何だか落ち着かないのだった。いつもの席へと腰を下ろしたカカシは、機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら本を取り出した。
さっきは書いてみたものの、カカシは、はなからフダなど書く気はないのだ。アスマも同じだった。
何も書かれていない白のフダばかりが入った箱は、放置されたままだった。
「誰か来ないかな」
とはいえ、フダの事は気になるらしく。カカシは時計を見ながらつぶやいた。けれど誰も来る様子はなかった。
アスマのタバコの煙だけが、部屋の中で動いている。
「煙出すなら、フダ書いて」言ってみるものの、書かない事は分かっている。アスマも返事をしない。
タバコを立て続けに3本吸い終わった頃に。
カカシは本から目を離さずに小さく言った。
「来たよ来たよ」
待ち兼ねた様な声だった。
「誰が…」
来たのかと、アスマは聞き耳を立てるけれど、かわらず部屋はシンと静まり返っている。
カカシは本に視線を落としたままでている。
「来た」
アスマは振り返り入口を見た。何も変化のない扉。
「遅いよ、ガイ」
声を掛けるカカシの視線の先。外に面した窓から黒い髪がチラチラと見えた。
「待ってたよ」
その言葉にアスマは驚く。カカシは普段そんな事は言わない。何か下心が無い限り。やはりガイに、フダを書かせる仕事を手伝わせるつもりなのだ。
そうとは知らないガイは
「おう!何だ」
普段と変わらない大きな声を出しながら壁をよじ登り窓から入って来た。体に付いたほこりもそのままに、一仕事終わったかのような爽やかな顔をして一息ついた。
「お前ら、元気そうだな」
ガイはカカシの側へと近寄って来たけれど、横で突っ立ったままでいる。カカシは、さも迷惑そうに
「…そうやっていつまでも見下ろされてると、熱い熱気が落ちて来てヒーターの真下にいるみたい〜だよ。暑いよ。…座れば」
ああ、とうなずいて、ガイは当たり前のようにカカシの隣りに座った。
待ってましたとばかりに、カカシはニコニコしながらフダと筆を出す。
「はい」
「何だ」
「ガイしか書けない」
「フダか…」
「見ての通り」
「何のフダなのだ。おれはこの手のものは、余り使わぬ」
苦手なのだと、言外に書くことを断る気持ちを匂わせるガイに対してカカシは
「日頃、書かない人が書くと効果あるって統計を知らないの、ガイ」
嘘かホントか。聞いた事のない話を、さも当然の如くカカシはさらりと言ってのけた。
「…嘘つけ」
つぶやくアスマをカカシは睨む。
アスマは、どうぞご勝手に、と両手を挙げて引き下がる。
「日頃、書かない者ならば、おれは当てはまるのだろう」
「でしょ」
「そうは言ってもカカシ、おれはこういう事務的作業が苦手なのだ。お前も知っているだろう」
「試しに書いてみてよ」
「むう…」
半ば強引に指先に筆を持たされてしまい、しかたなくガイは見本のフダを見ながら時間をかけて文字を書いていた。けれど墨汁を含ませすぎたのか文字が滲んで、一目見ただけでは判読出来ないものが書き上がった。
カカシは構わずに、
「試しに、もう一枚」
「なかなかに…難しいな」
唸りながらも書き続けるガイと、書き上がったものをガイの前から取り上げるとまた新しいフダを置くカカシ。
「試しに、あともう一枚」
そうやってカカシはガイの前にタイミングよくフダを置いては、次から次へと書かせていく。
アスマは書き終わって重ねてある束から一枚、取る。眺めてみた。
「文字がデカすぎて読めないぜ」
「なに?!」
自分ではなかなか上手く書けたと思っていたらしいガイは、アスマの、フダの文字をけなす様な言葉に対し、機嫌を悪くする。ムキになる様に
「…アスマ、そう言うお前は書いたのか。見せてみろ」
けれど唯一アスマが書いたものは、さきほど踏みつぶされてしまい、影も形も無かった。アスマは黙っている。
「人のをどうこういうなら自分のを見せてみろ」
ガイはじっ、と睨んでくる。
「子供のフダに、何もそこまで真剣に」
「子供のだろうが大人のだろうが関係ない」
ガイは、イスからすっくと立ち上がる。今にもアスマに挑みかかる鼻息の荒さだ。
そんなガイのベストを、何も言わずにカカシは強く引く。
急に片方だけ引っ張られてバランスを崩したガイは、斜めになりながら腰を打ち付けるようにイスへと座った。
「引っ張るな、カカシ」
「ケンカしない」
「ケンカではない」
「いいから。試しにあと一枚書いて」
ガイは深呼吸して、しぶしぶ筆を取る。書いてはみたが、力を入れ過ぎたのか文字が重なっている上に太すぎて、前よりも判読出来ない。けれどカカシは構わずに
「んじゃ試しに、もう一枚」
墨が垂れそうなフダを取り去ると、手際良く白いフダをガイの前へと置いた。
つられてガイは、出された札に文字を書いていく。書き終わったら、再び
「んじゃ、あと試しに、もう一枚」
そんな風に幾度も繰り返して、カカシは即座に札を置いてガイの気を他へそらさない。
「とりあえず、あと、一枚」カカシは、その言葉を呪文の様に繰り返す。
アスマは、黒々と書かれたフダを手に取った。書かれた文字の、あまりの豪快さに思わず言ってしまう。
「…すげぇ字だな」
ぴた、と、ガイの手が止まる。
「おれがいくらこういったフダを使わぬからといって…もう我慢ならん」
筆を置くとガイはアスマを見上げた。息を吐き、立ち上がったのだが。
またまたカカシは、ガイのベストを引っ張った。そして元のように座らせた。
「ケンカしないでヨ」
「ケンカではないぞ、カカシ」
「ほら、とりあえず試しに書いて。あと一枚」
有無を言わせずにフダと筆を押しつけられて、ガイは再び書き始めた。そしてしばらくは何ごとも無くカカシの「試しに」「あと一枚」が続いていたのだが。
アスマはふと疑問に思った事をつぶやいた。
「熱心な事だ。だけど、使えねえんじゃねえのか」
書くわけでもないくせに、いちいち邪魔するアスマに対して、カカシは眉間にしわを寄せた。
「もう!」
懸命に書いているガイをそのままにカカシは席を立ち、ガイの書いた札を宙へと放る。しゅぽん!と勢い良く白い煙が立ち昇った。
「使えるじゃん」
ご機嫌になったカカシは、また元の席に戻った。
「んじゃ、ガイ。続けて書いて」
「うむ…だが何故おればかりが?」
「だよねだよね。ガイの言うとおり」
カカシはアスマに、こっちへ来いと手招きする。
「ガイひとりに書かせたら不公平極まりないよね」
「カカシ、おれが言っているのはお前が何故、書かぬのかと…」
カカシはガイの言葉が聞こえない風で、かぶせて
「不公平だよアスマ!」
ガイの真似なのか、カカシはアスマに向かって腕を伸ばし、指を差している。何故、指差されたのか分からないアスマは苦笑いした。
「カカシ、お前が言われて…」
けれどカカシは取り合わず、箱からフダを取り出すと
「さあ!張り切って書いて」
二人の前に白いフダ札を置く。
「競争だよ」
「競争か!」
嬉しそうにガイは筆を持ち直して書き始める。けれどアスマは書く気がない。
「…俺は、下りる」
二枚三枚と調子ついて書きつらねていていたガイは、その言葉に顔を上げる。
「下りる…だと?」
「勝負をせぬ前から下りるとは、一体どういう事だ」
「勝負なんてしたくねぇと言ってるだけだ」
「何故だ」
「理由なんて、ない」
「勝負という名が付く限り…」
ガイは筆を机に叩き付けると唾を飛ばしつつ立ち上がった。
「何もせずに下りるなど、おれが許さん」
「ほっとけ。俺の勝手だ」
「許さん」
「ヤル気か、ガイ」
「おぅ!受けて立つぞ」
外へ出ろと言わんばかりなアスマは、本当はフダ書きから逃れようとする魂胆がミエミエな事にカカシは気付いた。
アスマひとりならフダ書きから外れてもいい。元々、一枚しか書いていないのだし。この後、気が変わり真面目にフダ書きをするとは思えない。
けれどだからといって、ガイまでも連れ出されては困ると思ったカカシは、二人の視線を遮るように両手を広げてのんびりと言った。
「はいはいはいはい。とりあえずケンカするのはあとにして、その前に一枚書いて」
ガイの手に筆を、アスマの手にも筆を握らせる。
「さ〜あ。早くケンカしたかったら、さっさと書〜いて」
のんびりした口調に気勢をそがれて、ガイはアスマの腕を押し返し、イスに戻ってきた。
アスマはあくまで書く気がないようすで、机に腰を下ろし、そっぽを向いている。
「じゃあ、ガイはたくさん書いたから、あと一枚」
カカシは、あと一枚、あと一枚と言いながら、終わる事無くガイの前に札を置く。何か言いたげなガイも口を挟む間を見つけられずに、しかたなく術式を書いていく。
「うまいね〜さすがガイ」
合間に褒める言葉を挟み、カカシはどんどんと札に文字を書かせていく。
「うっわ〜ガイ。さすがだね〜」
カカシは口のすべりも滑らかに、ガイを褒めたたえ続ける。
「特にこの文字!太く短くたくましく!こういうのって、ガイにしか書けないヨね!」
「そうか?そうでも、ないぞカカシ…アンコもなかなかにたくましい文字を書く」
「ん〜俺もこの仕事長いけど、こんな文字をサッサと書ける人ってあんまり見た事ナイよ」
「あまり褒めるな、カカシ」
「ああ、あまりの神々しさに目が眩むよ」
「よくもまあ…」
アスマは褒め殺しに似たカカシのおべんちゃらに、疑いの目を向ける。
けれどアスマには、カカシのたくらみは分かっていた。自分は口だけ動かすだけで、実際の労働は全てガイにやらせようとしているのだ。
ガイはカカシに乗せられている事を承知して言うなりにしているのかとも思ったが、しばらく見ていたら、どうやらそうでもないらしい。褒められて悪い気はしないガイは、ノリノリで気合い充分に、一心不乱に墨を含んだ筆を走らせていた。ガイは素でカカシの手中にハマっていた。
「上手いな〜かなわないよガイ」
「そうだろうそうだろうおれに任せておけカカシ!おおう!ガゼン、ヤル気がみなぎってきたぞ」
「だよねだよね!俺が横にいて応援しているからデしょ!アスマだと邪魔してばかりで進まないヨね」
さりげなく自分の存在をアピールするのも忘れないカカシに、アスマは思わず苦笑する。
「これは子供達の為にもなるからな!」
「そうだよ、さすが子供想いのガイのセリフだねえ。泣けてくるよ」「ガイほど自己犠牲の強い人はいないよ」「うわもう筆の運びからして犠牲精神が溢れまくり」「何て言うの、ほとばしる熱情?」「違うか、ほとばしる青春!?」「筆跡からみなぎる若さ!?」「眩しくって見てられないよ!!!」
「そうだろうそうだろう!はっはっはっ!おれに全てを任せておけば大丈夫だ、カカシよ!」
カカシのわざとらしい言葉の数々を、まともに受け取り張り切っているガイ。アスマは呆れて二人に背を向けた。
「付き合ってらンねえよ」
書き終わったフダを取り、新しいフダを置き、ガイが書き終わるのを待ち、また書き終わったフダをとり新しいフダを置く。
フダを取ったり置いたりする、そのタイミングが絶妙で、その事に対してだけは、アスマは感心した。
(あれに似てるな。餅つきの、杵で餅付く奴と水を付けて餅をひっくり返してる奴と)
ちょっと待てよ。アスマは再び考える。
(わんこ蕎麦だな。食ったらまた次のを食わされる)
我ながら言い例えだ。アスマはひとりごちて、煙草の煙をふうと吐いた。
その間も変わらずにカカシはガイの前にフダを置いてはガイに休む暇を与えない。
「その荒々しさがまた、勢いがあってイイね〜」「筆の払いが男らしいヨ」「にじんでるのも、また味があってイイね」「二番目の文字の倒れ方がたまらない」「うっわ〜最後の文字が小さいのが、これまた味だね」「すごいね〜」「さすがだよ〜」「たまらないね〜」「素敵だよ〜」「うわ〜」「んま〜」「ひゃ〜」「ほぅ〜」「あ〜」「う〜」「ん〜」「ふぅ〜」「へ〜」「ほ〜」
調子良い言葉をかけるのも面倒になってきたらしく、やがてカカシは適当に声をかけるだけになってきた。
それでもガイは上機嫌に筆を走らせていた。
あれほどお世辞の言葉を大量生産していたカカシが、急に静かになって一言も喋らずに黙ってしまった。どうしたのかと、アスマは後ろの様子をうかがった。
未記入のフダが山のように積まれた前で、ガイはひとり、髪を振り乱して懸命に筆を動かしている。カカシはといえば、相変わらずガイの隣りに座ってはいるものの、手伝うふうもなく、呑気に本を開き夢中になって読みふけっていた。
(出たよカカシの対ガイ究極の必殺技が。褒めまくって持ち上げてその気にさせて、結果、自分は何もしない技)
煙草を吹かし続けるアスマを気にも止めずにカカシは、ガイが勢い良く書き飛ばした為に机の上や床に散らばったフダを拾い集めようとするかの如く、イスを引き、立ち上がろうとしている。
(フリだな。最初から集める気なんてないだろうカカシは)
果たしてアスマの予想通り、時間をかけてゆっくりと立とうとしたカカシを、ガイが制した。
「待て待てカカシよ。書いた者が最後まで責任を持つのだ。お前は触るな」
言うが早いか、ガイは部屋中に散らばるフダを、床にはいつくばるようにして猛スピードでかき集め始めた。
触るなと言われたカカシは素直にフンフンと頷くと、再び本を広げた。その後は、どれほどフダが散らばろうが墨が飛び散ろうが、一切、気にする事無く本を読み続けていたのだった。
本を読みふけっていたカカシは、ガイがもうそろそろフダを書き終わる頃かと、本から目を離した。
乱雑に重ね置きしてある記入済みのフダの山に、よしよしという表情を浮かべていたが。ある事に気付いて目を見張る。
「……!!!」
フダの束の中から何枚かを手に取ると見比べた。指先で1枚ずつつまみあげた。そして、ノリに乗っている様子で書き続けるガイの目の前に突き出した。
「これ」
「…邪魔するな、カカシ」
それともお前も書きたくなったのか、と言おうとしたガイに、フダを押しつける。
「見てよ」
「…何だ」
「よく見てよ」
「なかなか綺麗に書けている」
「そうじゃなくて」
ガイの得意気なその顔の真ん前に、カカシはフダをぶら下げた。
「…ほら」
「何だ」
「ほら!」
「…だから何だ」
カカシからフダをひったくるように取るとガイは見比べてみた。
「ふむ。こっちは2番目の文字が斜めだが、他は味わいがあるな。もう1枚のはバランスの取れた形だが、欲を言えば文字に勢いがない。両方とも書いたのはおれだから、つまりは生みの親みたいなものだ。どっちがうまく書けているかと問われても、子供に差は付けられんな、親としては」
「ナニ、親を気取ってるの!」
イライラしながら、カカシはさっきガイがフダを取ったように、ガイからひったくるように取り返すと、叩き付けるように机へ置いた。
「よく見てよ」
「むぅ…」
ガイは黙って2枚のフダを交互に見比べていた。カカシはフダを指先で突っつきながら
「どうする?書き直しって言っても新しいフダなんて手持ちがないよ、俺もお前も」
「何故、書き直す」
カカシの言いたい事が理解出来ない様子で、ガイは問いかける。
「文字の美醜など、気にすれば果てしない」
「…分かってないな」
結果を見なきゃ分かんないのと言うようにカカシはフダを1枚ずつ、宙へと放った。
最初のフダはカカシの手から離れると、すぐに天井に突き刺さる様子でもうもうと白煙を上げて立ち昇っていき、煙はしばらく消えなかった。けれどもう1枚は、音も煙も出さずに静かに床へと落ちていった。
「…ほら」
カカシはガイを咎め始めた。けれどガイは相変わらず不思議そうに
「何故だ」
「見ないで書くから」
「きちんと見て書いたぞ。文字の間違いなど、このおれに限って」
「文字じゃ、ないよ」
「では何だ」
カカシはまだ何も書かれていない新しいフダを1枚取り上げた。ガイの目の高さに上げて、
「よく見てよ。紙の反り方が違うのが、分からない?」
「そう言われてみれば」
微妙ではあるが、カカシの言う通り、紙は上へと反り返っている。
「反っている方が表。こっちに書かなきゃ。お前、殆ど裏に書いてる」
「反り方が微妙すぎて、言われてみるまで分からぬ」
「言い訳だよ」
カカシはフダの束をいじりつつ言った。
「裏に書いてるのって、もしかしたら半分以上あるかも」
「写輪眼か」
「…そんなの使うまでもなく」
重ねた束から1枚2枚とめくりながら
「裏・表・裏・表…裏・裏…ほら」
フダを机の上へと置いた。
けれどもガイは、首をひねった。
「おれには区別が付かぬ」
「だ・か・ら」
また前のように目の高さに紙を上げようとするカカシに、ガイは腕組みをしてジロリと見つめた。
「間違ったとおれの事を責めるが、カカシよ」
「ナニ?」
「さっきお前が書けと置いた時は、キチンと表になるように置いたのか」
「もしかして疑ってるの、その目ってば」
「おればかりを責めるが」
「…置いたかどうか…覚えてないよ、そんな昔の話」
「ついさっきの事だ」
「俺だけが悪くて自分は悪くないって言う訳?」
「そうは言っておらぬ」
「言っているのと同じじゃないか、そのちっさな目で!」
「生まれつきなのだ。これは、おれの知った事ではない。それに小さいのではなく、細いのだ。間違うな、カカシ」
「どっちでもいいよ、そんなの」
「よくないぞ」
「いいよ。その小さいのか細いのかの目で、俺だけが悪いって言ってるんだ、お前は」
「言っておらぬと言っている」
「ほら、言ってんじゃん」
「言っておらぬ」
互いにむっとしながら、二人は黙ってしまった。
アスマが吐く煙まじりの息の音が、耳障りなほどに部屋に響く。アスマは我関せずと言った風で数回吐く度に煙の行方をぼんやりと見ていたが、やがて口を開いた。
「もうすぐ昼だな」
昼にはゲンマが記入済みのフダを取りにやって来る。後それほど時間はない。どうしようかとあれこれ考えてはいるものの、見た目は何も考えてはいない風のカカシも、広げた本をとりあえず閉じる。
「…腹が減ったな」
溜め息混じりにつぶやくアスマの呑気すぎる発言に、カカシは少し怒ったようにアスマを睨みつけた。
そんなカカシの肩をガイは勢いよく叩いた。
「カカシよ」
何か思い付いたとみえて、無邪気に力一杯叩いてくるガイに対してカカシはとても迷惑そうな表情を浮かべた。
「…痛い」
「しばらく指を貸せ」
「ナニ?」
ガイはカカシの左手を掴んだ。そして口へと持っていくと、カカシの親指をギリッと囓る。すぐに指先からにじみ出てきた2〜3滴の血を、墨汁の上へと垂らした。
驚いたカカシは腕を引き戻し、
「人の指先を自分のものみたいに乱暴に扱うな、野蛮人」
叫んだ後に、痛そうに唇で吸う。笑いながらガイは
「血などすぐに止まる」
「ヒトノユビダトオモッテ!!!!」
カカシは親指をしばらく舐めていたが、やがて血が止まったのを見て不機嫌な表情のままで
「やってくれたな、ガイ」
「しるしを混入した墨ならば、訂正も可だ」
「それって、しるしの持ち主が訂正しなくちゃ効力がないのを知っていて…他に方法が」
「確かに、あるにはある。訂正の方法はな。だが今回はこれを使う」
ガイはカカシの血混じりの墨汁を筆先でクルクルと掻き回し始めた。それを横目で見ながらカカシは
「墨汁だって残り少ないのに、そんなに混ぜちゃったらああもうそれを使うしか…はああ」
机にひじをつくと、顔を載せて嫌そうにした。大袈裟に、あああああと声を出す。
「ガイ、俺にすべて訂正させるつもりだろ」
「理解が早いな。さすがは我がライバル」
ふふんと鼻を鳴らしながらガイは胸を張り、カカシの前にフダを並べた。
「おれには裏表の区別が付かぬ。だからカカシ、お前が選別して、裏のものにだけ、お前の手で反転の文字を書け」
「ガイが俺にやらせたいのは、術式の巻・第二十の三。表の文字の効果を無くして裏に書いた文字を正しい文字だと認識させる。つまり『裏が表』だと指定する為の方法。それを使うんでしょ?」
本を丸ごと読むかの様に、明らかな棒読みで少々説明臭く言うカカシにガイは頷いた。
「そうだ」
「だけど表書きがないのに最初から『裏を表』だと見せるなんて、あまり聞いた事がない」
「だが使い方は間違ってはおらぬ」
「…まあ、そうだけど」
「あまり知らぬが、技が進化していると同様にフダも色々と開発されてきているのだな」
「アカデミーで習い覚えた頃のものとは格段に違って、使いやすくなってるらしいね」
「そんな新しい種類のものを取り扱うすべを、おれはそれほど知らぬ。だから間違えた」
裏表を書き間違えた言い訳をするのかと思いきや、ガイはフダを表と裏に返し見比べて、しかめっ面をしただけだった。
「見れば見るほど、ますます分からぬ」
「俺たちの時代には紙の裏表なんかなくて、貼り合わせたり重ねたりする事で同じ術式でも違うものとして扱えたよ。使う者の工夫で同じフダが全く違うものになったりした」
「今のフダは使う者の能力の差は無く誰が使っても、裏表によって違う効果が現れる便利なものもあるらしいと聞いてはいたが」
「お前はいなかったけど、試しに書いた俺の術式では煙の量が少なかったし、アスマのでは刺激を与えなければ何も起こらなかった」
「その時に何故、気付かない」
言われてカカシは、視線を反らした。
「………」
何故と言われても、気付かなかったものはしかたがない。後で思い出したのだ。けれどガイの前では負けを死んでも認めたくないカカシは、小さな声で
「おもてとうらのくべつがつかないおまえにいわれたくない」
「おれは昔からフダをあまり使わない。下忍を指導するようになってから新しいものを時折、使う事もあるのだが…表裏など…」
「けどでも、お前のは確かに立派に発煙するよ」
自分のは何故、あんなにショボショボだったのか。カカシは、フダには文字の勢いも作用するのかと、頭の中のフダの効用のページを繰ってみる。けれど、記憶にはない。
「…お前のは、使えるよ」
「褒めてくれているのか」
「そういう訳じゃない。ホントの事を言ってるだけ」
「むぅ…」
それでも褒め言葉には違いないとガイは改めてフダを見た。黒々とたくましく書かれている文字を満更でもない様子で眺めていた。それからしばらく、紙を弾いたり撫でたりしていたが、やはり表裏の違いはよく分からないらしくフダを元に戻した。
「まだ、分かんないの?どっちが表とか」
「…ふむ」
「そういうのって、取り残されてる感じがするよね」
「む?」
「昔は説明ナシで、すぐに使いこなしてたのに」
「カカシ…お前、歳を取ったな」
「歳のせいじゃないよ。複雑なんだよ世の中が」
「乗り切れぬ、そういう、何やら置いていかれたような気持ちを持つようになる事を、世の中では『歳を取った』と言うのだ」
「うらとおもてのくべつがつかないひとにいわれたくない」
口を尖らせながら言うカカシに、ガイは何も書いてないフダの片方を上に向けて置いた。
「…ナニ?」
「こっちが表だ。間違いはないはずだ」
カカシは一蔑して、
「残念でした」
「…本当か」
「何だか疲れたよ」
「カカシ、お前は口しか動かしてはおらぬ」
「お前は腕だけじゃないか」
「そもそも何故おれだけが書いているのだ」
「ご機嫌で書いていたのは誰だよ」
「それは…」
他人事の様に二人の掛け合いを眺めていたアスマだったが、聞きながらふと思い付いた。使い方をさほど知らない新しいフダ。けれど、訂正方法を知っているという事は。
「…もしかして、ガイ」
アスマは言い放った。
「お前、常習だな」
これまでにも幾度か間違えているのではないのかと言いたげだ。ニヤニヤしている。
「アスマ、お前も書きたいのかっ?!」
ずっと笑い続けているアスマに対し、ガイは筆をアスマの方へと突き出した。怒った様な顔だ。
「時間がないのだ。お前も書くか、アスマ」
今にも筆を握らされそうなガイの凄まじい形相を見て取り
「…余計な事は、言わぬが花だ」
アスマは二人に背を向けた。
そんなアスマの背を睨むと一呼吸置き、ガイは意識して深呼吸をした。ふうふうと沢山の酸素混じりの空気を取り込む。気合い充分になったとみえて、筆を持つとカカシに向かって命令口調で叫んだ。
「さあ、カカシ、休憩は終わりだ!書け!おれが見ていてやるからな、さあ書け!」
「…ヤダ」
渋っているカカシの背後へとガイは回り込んだ。
カカシはさも迷惑そうに席を立とうとするのだが、ガイが両方の肩を人差し指で押さえてきて、立つ事さえ出来ない。
ガイはカカシへ、たたみかける様に大きな声で尋ねてくる。
「これは表か裏か、カカシ」
「…裏」
いじけた様に呟いたカカシの、その声を聞くやいなや、ガイはカカシの背中に胸をくっつけた。前のめりに身を乗り出すようにしながら、無理やりに筆を持たせたカカシの手の甲を握る。
「おれが手を添えてやる」
「いらないってば」
「書け!書け!」
「重い…潰れそうだ。ガイ、重い」
「潰れぬ」
「俺って、ほら、か弱いじゃない?ガイと比べて」
「か弱いと知っているなら、後で鍛えてやる。今は、とにかく書け!」
「…ヤダ」
手の自由を殆どガイの支配下に置かれながらも、カカシは絶対に文字を書こうとしない。ガイも意地になり、書かせようと踏ん張る。
「書け!」
「…ヤダ」
「書けと言ったら書け!」
「ヤダ。絶対、ヤダ」
そんなガイとカカシの力比べに似た我慢比べをよそに、
「…ああ、昼になったな」
窓枠に腰を掛けて外を眺めていたアスマは、道をやって来るゲンマが自分の姿に気付いて咥えていた細長い楊枝を少しだけ動かしたのを見て取ると、挨拶代わりに煙草を持つ手を軽く挙げた。
(終)
2006.04.06
達筆 DE 内職・ラスト別バージョン |