臥 待 月
「風邪を引いた時って、何が食いたい?」
今朝から会う人ごとに、質問を繰り返しているアスマだ。
お粥5票・リンゴのすりおろし7票・白桃の缶詰め3票・ミカンの缶詰め2票・プリン4票・ヨーグルト2票・果物のジュース3票・その他1票。
「お粥ったって、何かおかずがいるだろう?卵焼きとかソーセージとか。それにしても、腹に溜まらないものばっかりだな。これじゃ、腹減って、かえって直りが遅くならねえか?」
アスマはこれまで、風邪で寝込むという経験をした事がない。
鼻が詰まったり喉が痛かったり、咳が出たり熱で頭がぼうっとする、という症状はあっても、放っておけば1・2日で治っている。 いつもとちょっと違うな、程度だ。起きることが出来ないほどの症状には、ならない。
紅が派遣先でひどい風邪にやられ、任務途中で一足先に里へ帰ってきているという。 それを耳にしたアスマは、帰りに様子を見に行ってやろうとしているのだ。寝込んだ事のないアスマは、風邪の時でもいつもと同じものを食べている。そういう時に何を食べたいのか、何を買っていってやればいいのか分からなくて、朝から聞きまわっていたというわけだ。
入院せずに自宅にいるというから、不便な事もあるのだろう。
アスマは待機所から出て、食材を販売している集落へ足を向けた。
向こうから、見知った顔が走ってくる。ガイだ。
「…ああ、間に合って良かった、アスマ。これを紅にやってくれ」
はあはあ言いながら、手に持った四角の袋をアスマの前へと差し出す。
「何だ?」
アスマは袋から醸し出される妙な臭いに、鼻をひくひくさせた。
「ツーンとくるな。何だ、これは」
「唐辛子シップだ」
「唐辛子?」
「紅のいた国で流行していた風邪は、咳もひどいが体のあちこちが痛んで、歩くのも大変らしいと聞いたぞ」
「そうなのか。だから1人帰されたのか」
任務の終了を待たずに戻される事は、滅多にない話だ。風邪程度で何故と思っていたのだが。
そうかとアスマは納得する。
けれど、歩けない程の痛みとは。
「痛みにはこれだ。おれはほとんど使わぬのだが、これが一番良く効くのだ」
「この、唐辛子が?」
「体を温め、血行を良くして回復力を高める」
本当なのか?唐辛子が好きな、お前だけに効くのではないのか。効くと、思い込んでいるだけではないのか。
唐辛子シップなど初耳の名称だ。湿布薬など使った事のないアスマは、疑わしく思う。
そもそも、今朝顔を合わせた時、風邪をひいた時に何を食べたいかとの問いかけに対し、
「カレーうどん。それも特別辛い特製の」
と、返答したのがこの男だ。喉が痛い時に、そんなものを食べたら、今以上にヒリヒリと痛むのではないのか。
そう思ったアスマは、何故カレーなのかと聞き返すと、
「汗をかいて、体の熱を冷ますのだ。毒素も出る」
と、ガイは胸を張る。なにか不審な点でもあるのかと言いたげな目をした。
こういう場合、汗を出すのは理にかなっているのだろう。ただ、方法がどうも一般的ではない様だ。カレーうどんにしても、唐辛子シップにしても。
だいたいこの男も、自分と同じで風邪はひいても、寝込んだ所をいまだかつて見た事がない。
だから風邪と聞いても正直、ピンとこないのだろう。
「唐辛子だけでなく何か他の材料が混ぜてあるものは、効き目が弱いのだ。それに妙なものが混じっていると、副作用も心配だ。100%唐辛子使用のものは、この近くには売っておらんからな。少し遠いが、買いに行っていたのだ」
袋の裏を見ると、国境付近の番地が書いてある。大人の足でも往復3時間以上かかる距離だ。
確か1時間程前に報告書を書き上げ、部屋を出ていったのを見た筈だったが。
「お前、こんな遠くまで」
「人間、やれば出来るものだな。無理かとも思ったが、30分で戻って来れた」
「さ、30分?」
3時間の道のりを30分で行くとは、ものすごい駿足だ。
「待ち合わせをしているのだ。それに遅れまいと思ってな。制約があると、物事に対しての取り組み方も違ってくる。必死に走った。なので思ったより早く帰れた。嬉しいぞ」
ガイは額にほんの少し浮かんだ汗を、手の甲で拭った。その顔には、疲れなど微塵も感じられない。充実感で満たされて、幸せな顔をしていた。
「それは…」
「アスマはおれの大切な友人だ。アスマは紅の事が大切だ。アスマの大切な人間は、おれにとっても大切な奴だ」
唐辛子シップの効き目はともかく、ガイのその気持ちには、頭の下がる思いがする。自分の用事があってそれほど時間がないという時に、普通は3時間もの距離を走ろうとはしないものだ。
自分の足の速さに自信のあるガイなりの、優しさの表現なのだろう。
「では紅によろしくな、アスマ」
「今からどこへ行く?」
「飯を食うのだ」
「待ち合わせだと言わなかったか?」
「そうだ」
「誰だ、相手は」
食事を共にする為、待ち合せの約束をする相手。
遅れてはいけないと、時間を気にするという事は。まさか、女性か?
アスマの疑念に対し、ガイは事も無げに言う。
「ああ。リーとネジだ」
「生徒と晩飯を食うのか」
「週に3日は一緒だ。おれに任務のない時は、毎日食う時もある」
アスマも受け持ちの生徒とおやつを食べたり、夕食代わりの焼肉を、時折、共に食べる事はある。けれどガイのように、頻繁な回数ではない。
「アスマのところの子供はみな、家庭があるのだろう?だから家で食べるのは当たり前だ」
いの・シカマル・チョウジ。3名とも代々、忍として名を成して来た由緒ある家柄の子供達だ。朝、家を出てくる時には、母親が見送ってくれる。夕方、家に戻る頃には、温かい食事の匂いが、彼らを出迎えているに違いない。
「ネジには迎えてくれる者がいない」
幼少時に一族に起こった事件で、家族という形を失ってしまった日向ネジ。
下忍の集まる食堂で1人、食事をしている姿を目にした事があった。冷え切った弁当を買っている姿を見かけたこともある。
夕食だけでも、誰かと会話しながら食べたほうがいいのではないのか。せめて、一人ぼっちということのないようにしてやりたい。
そう考えたガイは、ネジを夕食に誘った。
最初のうちは断っていたネジも、めげずに繰り返し誘うガイに根負けする。
温かな料理を前にしてガイだけが1人で喋り、ネジがどうしていいのか困惑しながら聞いているという夕食を、数回共にした後に。
その事を聞き知ったロック・リーが、ガイに頼み込む。
“僕もご一緒させてください”
ガイとネジの間に、まるで仲を取り持つように席を取ったリーのおかげで、月に1回だった会食が、月に2回になり週に1回になり。
そして今では、週の半分を共に過ごす様になっていた。
「食事中に、何を話すのだ?」
「さあ。特にこれといって…食いながら難しい話をしても、飯がマズいし消化にも悪い。特別な事は言わぬな。昨日盛り上がったのは、女の子がいては出来ぬ、ナイショの話だ」
テンテンには家族がいるので、夕食を共にする事は滅多にない。その場にいない事をいい事に、普段出来ない話をするらしい。
「噂話という奴か?男同士だから、話せる事もある」
「楽しいのか、それは」
「もちろんだ」
ガイなら自分も子供のようになって、一緒に話し込んでいるに違いない。
「とても、楽しいぞ」
言ってガイは、笑った。
「それより早く、見舞いに行け。朝も言ったが、カレーうどんを作ってやるんだぞ」
「俺はそんなの作れねえよ」
ガイは、ああ、と頷いてから、それなら、と言った。
「買い置きしているうどんと冷凍してあるカレーを、家から取ってきてやる」
「いいよ。病人はそんな辛いもん食わねえみたいだし」
「おれが作った特製のカレーだ。旨いのだ」
「辛いんだろう、うんと」
「それがいいのだ。凍ったままのものを鍋へ入れて温めるだけだ。アスマにも出来るぞ、簡単だ」
「そういう事ではなくて…」
この男は本気で、病人にカレーうどんを食わせるつもりなのだ。
こんな男に夕食をつきあわされている弟子は、一体どんなものを食べさせられているのだろう。
アスマはネジとリーの顔を浮かべ、可哀想だという気持ちを禁じ得ない。
「急げば3分で取りに行けるぞ」
ガイは家の方へ向って、今にも走り出しそうだった。
「今日はいいよ、紅には聞いておくよ、食うかどうか」
「そうか…」
本心では納得しきれてはいない顔のまま、ガイは食事を出す店が立ち並ぶ集落の方向を見た。
夕闇の中に、ぽつりぽつりと明かりが灯り始めている。
ポケットをさぐり、1枚の紙を出した。
「今日の献立は、サバのみそ煮とほうれん草の白和え。マカロニサラダにワカメとジャガイモのみそ汁だ」
「献立って、定食のメニュー表か?」
「違うぞ。店のお姉さんに別で頼んであるのだ。呑み屋のおかずは天プラが多いからな。夕飯は家庭の香りのするものを、作ってもらっている」
「お前がいつも行く所に、子供を連れていっているのか」
アスマは驚く。ガイの通っている飯屋は料理の味が旨いと評判だが、夜は酒も出している店だ。酔った大人がそれほどいない時間帯とは言うものの、そんな所で食事をさせているとは、余りいい事ではないのでは、と思った。
「店のニ階の、お姉さんの部屋を借りているのだ」
ガイは何でもないという風にさらっと言う。
この男なりに、いろいろ考えているのか。それにしても、週の半分を子供と飯を食うなんて、俺には出来ない芸当だ。少々、入れ込みすぎではないのか。
アスマは、彼らの距離の近さが気になる。
何か言おうとするアスマに、ガイは紙を元通りにしまうと、
「時間だ。行くぞ、アスマ。紅の事を大事に見てやれ」
「お前に言われなくてもそうするさ」
「そうか、そうだな」
ガイは片手を挙げ、走り去ってゆく。
アスマは何かが心に引っかかる気分でその後ろ姿をほんの少しの間見送っていたが、やがて食糧品店へとその足を向けた。
合い鍵で静かに紅の家へと入ったアスマは、そのまま寝室へと向かった。
買い物袋の音をうるさく立てて、自分の来訪をわざとらしく主張する。
以前、夜中に足音を立てずに部屋へ入ったアスマは、紅に足蹴りをくらわされた事がある。寝ぼけていたのか、紅は、男顔負けのもの凄い力でアスマを蹴った。
まさかここでそんな事をされるとは思いもしていなかったアスマは、油断していたせいもあって。よけきれずに、次の部屋まで吹っ飛ばされてしまった。情けない話だ。まことにいただけない。チカンか侵入者とでも思われたようだ。
気配で俺だと、分かるだろう、普通。そう言うアスマに、
紛らわしい事をするほうが悪い、と反対に言い返される始末だったのだ。
それからは昼以外、特に、紅が寝ているような時刻にこの家を訪ねる時には、“必要以上に音を立てる”事にしているアスマだった。
また殴られでもしたら、たまったもんじゃねぇからな。アレは大変、痛かった。手加減ナシ、だったからな。ある意味一種の、トラウマになりそうな勢いだったぜ。
今になってよく考えたら、アスマと分からない筈がない。冗談で気配も全て消して忍び込む事はあったが、寝ぼけていても何もされなかった時が多々ある。
もしかして分かっていて、わざとだったのか。
隠れてやってたあれとかこれとか、バレてんのかな。まさか、な。
そんな事に気を回しながら。
今日の紅は。夕方とはいえ、寝ているに違いない。用心し、買い物袋を揺らしてカサカサと音を鳴らす。
どんな様子だ。
覗き見るように、戸を細めに開く。と、枕が飛んできた。
「何だ、起きているのか」
「痛いのよ、アスマ、どうにかして」
いら立った声。いつものアスマに対する女の部分の紅とは、かけ離れた声だ。
ベッドで身を起こし、アスマを睨むように見ている。眉をしかめていた。機嫌が悪そうだった。
ガイの言った通り、紅の風邪は痛みが強いようだ。
「寝ていられないの」
「薬は」
「咳は止まったけど、体のあちこちが、痛くて痛くて」
枕を拾って、アスマはベッドの横へ行く。久しぶりに見る紅の顔だった。
任務の時とは違って、家では化粧をしていない事が殆どだ。普段の彼女からは想像もつかない幼さの混じった可愛らしい、自分だけに見せる特別なその表情に、アスマは再会する。
買い物袋を下ろし、紅のそばに近寄る。両手で紅の顔を包んだ。
自分の顔を寄せて、唇を重ねようとする。
とたんに、頬を叩かれた。
「触らないで!痛いのよ!」
「お、悪い」
色気も何もあったもんじゃねえな。
アスマは、互いの任務の休みが合わずに、ここしばらくお預け状態の紅の体へと、あわよくば手を触れる事が出来るかと、密かに期待をして来たのだ。風邪だと言うが、咳込んでいたってそういう事は出来るんじゃねえか。などと気楽に考えていた、呑気な自分がバカらしい。
「何?このツーンとくる臭いは」
険のある声で、紅はアスマを見た。
おお、恐い恐い。
逆らわず、アスマは床に置いた袋から臭いの原因を取り出す。
ガイのくれた、シップ入りの袋。
「すごい臭いね」
袋を開けると、白く四角い貼り薬と丸い容器が出てきた。
どちらにも唐辛子シップの印が記入してある。
「開けると、これまたすごい臭いだ」
アスマは顔をしかめる。これを実際使うとなると、部屋の中が唐辛子の香りだらけになりそうだ。
まさかとは思うが。紅はこの唐辛子を使うと言い出さないだろうな。
「早くしまえよ、それ」
アスマが言い終わらないうちに、紅は容器のフタを取ってしまう。
指先で、中に入った軟膏を掬った。手の甲に塗ってみる。
「この赤い色、効きそうな気がするわ」
紅の体温で温められた薬の成分が、空気中に溶け出してきた。
アスマは、鼻に手の甲を当てて臭いを防ごうとする。軟膏は、四角の貼り薬よりも強い香りだ。
「…早くフタしろ、フタ!」
けれど紅は平然としている。
しばらくして首をかしげ。塗った所を撫でて、更につねっている。
「痛くないみたい」
「ホントか?」
ガイの言った事は本当なのか。それにしてもひどく即効性のあるモノだな。良く効くのはいいのだが、この臭いが、なんとも。とにかく刺激的で強烈だ。
臭い。そういえばさっきから、あまり感じないな。
この頃にはアスマの嗅覚は、この臭いに慣れてしまっていたのだ。
紅はせっせと腕に軟膏を塗っている。手の届く範囲を塗り終えた。
「ねえ、アスマ。お願い」
痛みが少し和らいで気分がいいのか、いつもアスマに甘えるような優しい声を紅は出した。
「…背中に、シップ貼って」
この俺に?シップを貼れと?
耳をくすぐる声は艶めかしいっていうのに。その声で、あろう事かシップを貼れって頼むのかよ。他にお願いする事、あるだろうが。二人で楽しく、そういう、その。ああ、もう。
アスマは肩を落とし、ため息をつく。
アスマの気持ちにお構いなく、紅はそろそろと上着を脱いだ。
白く滑らかな背中をアスマに向ける。
アスマは四角いシップ薬を手に持ち、裏紙をはがした。
久しぶりに裸と御対面だっていうのに、こんな作業をさせられるとは。
アスマはまた、ため息をつく。貼ろうとして紅の肌に手を当て。
そうだ。あることを、思いつく。
アスマの目が輝いた。
「その塗り薬を貸せよ。塗ってやる」
背中と言わず体中あっちこっちに、塗りたくってやろう。塗るだけだ、塗るだけ。
心の中でそう繰り返しながら。本当にそれだけなのか、と自問自答しながら。
とりあえず、意外な所に、楽しみを発見してしまったアスマだった。
アスマの胸元に顔を寄せ、紅はまどろみの中にいる。
体が熱い。アスマと触れ合っている部分は、特に熱い。
けれど、いい気分だった。痛みからの開放が、こんなに気持ちを楽にするとは思わなかった。さっきまで意識を占領していたイライラの棘が、跡形も無く消えている。
顔を触られるのも痛かったくらいなのに、今はひんやりとしたアスマの躰にくっつく事が心地よく感じられた。このまま眠ってしまいたいような、このままでいたいような。その間を行ったり来たりしたいような。なんだか贅沢な気分だった。
痛くないのは、普通の事なのに。アスマが隣にいるのも、いつもの事なのに。そんな当たり前の普通さを幸せというのかと、紅はぼんやりと考えていた。
「熱があるんじゃないのか、紅?」
アスマの心配そうな声に、紅はうっすらと目を開けた。
「気分は悪くないの。でも熱いわね」
とにかく汗を多量にかいている。さっきからバスタオルをニ枚交換し、拭き取るのがめんどうになって、今は体に巻きつけている。
そのタオルも湿気てしまい、今にも湯気が立ち昇りそうだった。
「唐辛子軟膏のせいか」
「そうかも?」
「体を温め血行を良くして、と、ガイが言っていた」
「…これ、ガイのご推薦なの?」
言わなかったか?アスマは考える。
もしかして嫌だったか、紅はこんな訳の分からない変なものを使うのは。
「なら、自然派ね。副作用も少ない筈だわ」
意外と気にしない性質らしい。形にとらわれずにその本質を見る性質なのは知ってはいたが、その相手が唐辛子でも、かまわないのか。
普通、この臭いだけでも敬遠しそうなものだが。
アスマは紅の躰に手をやる。
「すごい汗だ」
「タオルを換えるわ」
紅は起き上がると、足に触れた。確かめるように、何度も触った。そして驚きの声を上げる。
「あら、全然痛くない。塗る前は動かすだけでも、痛くて大変だったの」
「だけど、肌が真っ赤だぜ」
唐辛子軟膏の色素は、一旦肌に塗ってしまうと、タオルで拭いても取れる事はなかった。
紅の首から下は、ほとんど桃色から赤色をしている。
「この色、落ちるのかしら」
「もともとは唐辛子だろう。放っときゃ元に戻るだろ」
アスマは呑気に言って、寝転んだまま手を伸ばし、紅の背中を触った。
汗で、指先がつるつると滑る。そんな手触りも、心地良い。
「ずっとこのままだったら、どうする?」
背中越しに、紅は問いかける。
「赤い躰の女は嫌かしら」
「さあな。服を着りゃわからねえし」
紅はアスマの手を、ぴしゃりと叩き。
「ウソでも、今のままのお前を、愛してると言ってよ。つまらない男」
タオルが入った籠から1枚取り出し躰に巻くと、はぎ取ったものをアスマへ投げつけた。
アスマは軽く受け止めると、手で重さを測る。
「絞ったら水が出そうだな」
重いタオルを台所の方へと投げ、躰を起こす。ベッドのわきに置いたままの買い物袋から、缶のジュースを取り出した。気付いて紅が、袋を覗き込んだ。ごそごそと音をさせて中味を確認する。
「…桃とみかんの缶詰・プリン、は分かるとして、ソーセージ?これはアスマが食べたいだけでしょ。お米って、どうして?」
「お粥ってのは米で出来てんだろ?」
何のためらいもなく言う、アスマ。どこか間違っているのかと言いたげだ。
「誰が作るの」
1kgの米の袋を手に、紅はアスマを見上げた。
「…お前だろ」
さも当たり前という風に言い、ジュースをあおる。
「病人が、自分の為に料理するの?そんなの聞いたこと無いわよ」
強い口調の紅。
「…じゃ、俺が?」
のんびり言ったアスマは、今度は袋からプリンを取り出すとフタを開けた。
スプーンが見当たらないので、袋に入っていたハシを使い、器用にすくって食べはじめる。
「俺が?じゃないわよ。しかもそれ、私の為に買ってきたものを、どうしてアスマが先に食べているのよ」
はしの上でプリンが揺れる。アスマは、憤慨している紅の口元へと運んでやる。プリンはゆらゆら揺れながら、無事に紅の口の中へと納まった。
「…ガイなら、もう少し気を配ってくれそうだわ」
自分にはこういった甘いものよりもっと好きなものがある事を、この男は覚えていないのかと紅はがっかりする。
「ガイ?風邪のお前に、冷凍のカレーとうどんを持っていって作ってやれと言った奴だぜ」
「お米を持ってくるよりは、いくらかマシだわ」
「…まあ怒るな。体温が上がる」
アスマは再びハシで、揺れるプリンをすくいあげた。
自分の方へと向うそれを見、紅は反射的に口を開ける。
飲み込んでしまって。
「…だから私は、甘いものより」
こんな時には。
半分凍ってミゾレ状になった酒が、飲みたかった。
きっと喉ごしが冷たくって、たまらなく気持ちいいだろう。
「酒か?」
プリンを食べてしまったアスマは。紅を見、意地悪そうに、笑う。
「飲んでもいいが、後の事は知らないぜ」
「何よ」
「今でも充分汗かいて、暑そうなのに」
酒を飲めば、体温はもちろん高くなる筈。今以上に汗をかいてしまうのは目に見えている。
「ああ、そういうことね」
「俺の好きな、その顔まで赤くなって、ふうふう言って全身ゆでダコ状態のお前は、ごめんだ」
紅の望む゛愛している゛という言葉を、簡単には口に出来ないアスマは、とりあえず、そう言ってみる。
そして紅の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。紅は背を預け大人しく、アスマの両腕の中にいる。
髪をまとめて高い位置で留めていた。普段は髪の間に見え隠れする華奢な肩や首筋を、さえぎるものは何もない。アスマは汗の光るその場所へ顔を寄せた。
唐辛子の臭いの中に混じって、紅の香りがする。どちらも、アスマの鼻の奥をあらためて刺激的してくる。
「気がきかなくて悪かったな」
「アスマは、いつもそうだから」
顔を少しだけ動かすと、紅はアスマの頬に唇を寄せた。
「気がきくといえば、ちょっとひっかかる事がある」
アスマは煙草に火をつけた。
紅は手を伸ばし、灰皿を取る。
「生徒と一緒に飯を食う事を、お前はどう思う?」
「いい事じゃないの?」
「週に何度も、だぜ」
「誰の話なの?」
「日向のガキだ。分家の」
「ネジ君」
「ガイはネジが1人で飯食っているのを見て、それから」
「らしい話ね。なんとかしてやりたいと思ったんだわ」
「らしいといえばそれで済むが、気になる。そこまで入れ込むのはどうかと思わないか」
煙草を灰皿へ置き、ひと息ついた。
「もうひとりの生徒に対しても、普通じゃない接し方だろ?」
「リー君?あれは、あの子も積極的にガイの真似をしているから」
「もうすぐ中忍試験が始まる。いつまでも、先生と生徒、指導して教えられて、っていう間柄のままではいられない」
鍛えようと懸命になるのは悪い事じゃない。いろいろと世話をしてやるのも、いい事だとは思う。それについてはアスマも、反対はしない。
ただ、一歩引いて接する方が、相手の、そして自分の置かれている場所が冷静に確認出来るのではないかと思う。
近付いた距離を、ずっと前からその近さが当然であると思い込んで、疑うことすらしない。ずっと以前から持っていたような、錯覚。それは、いつまでもそういう関係が続くと信じているからじゃないのか。
「いいんじゃないの?ガイがやりたいんだから」
「それはそうだが」
「じゃあ何故、アスマは焼肉に連れてゆくの?そんな事しなくてもいい筈だけど」
「俺は…」
アスマは黙る。子供は好きなのだが、つき合い方の距離を上手く測れないアスマは、自分と生徒とを繋ぐキーワードとして“食べ物”を使うことが、よくある。
幸いにもメンバーの中に肉好きがいる。焼肉をダシにして言う事をきかせる時もある。
焼肉という二文字で、アスマは生徒との関係を上手く保てていると思う時がある。
むろんそれが全てでは、無いのだが。
「俺の焼肉とガイの晩飯は、力の入れようが全く違う」
紅はくすくす笑った。
「私から見れば、同じよ」
「違う」
アスマは再び煙草を手に取った。深く、吸う。
焼肉なんて言葉で、近づいたフリをしているだけなんだ。ガイのそれとは、全く違う。
「少なくとも生徒から見れば、同じよ」
「俺はガイほど、信頼されてないぜ、班員のあいつらにはな」
「どうしてそう思うの?まさか面と向かって言われたとか」
「そこまで嫌われりゃ、教師以前に人間失格な気がする。それほどじゃないはずだぜ、自分で言うのもなんだけどな」
アスマは細く長く煙を吐いた。そしてまだ長さの残る煙草を灰皿に押しつけ、消した。
「あの3人は小さい頃から親同士が仲良くて幼馴染。だから今だって、どの班よりもチームワークは強い」
アスマの担当の、いの・シカマル・チョウジ。親から受け継ぐ術で、互いに助け合う技すら完成している3人だ。
「出来上がっているチームワークに、口出しは少ない方がいいと思うけど」
「放任主義っていうのも、指導方針か?」
「そうじゃない?自主性に任せる。手出しをするのは簡単な事よ。黙って見守る方が、時には大切な事もあるわ」
「…チョウジの事は、俺よりシカマルの方がよく分かってるって気がするぜ。いのの事もな」
「子供の世界は子供同士で作るものよ。互いの事を分かり合っているのは、素晴らしい事だわ」
「ガイを見て言う訳じゃないんだが。3人共、あれでいいのかと思う時もある。特にチョウジは呑気というか、もともと気性が優しい奴だからな。今の状態で実戦で、本気出して戦う事が出来るのか」
紅はアスマの手をもて遊ぶ。自分の手には余る大きさを持つアスマの手のひらを、いとおしそうに、両手で触れる。
「もっとうるさく言った方が、いいのかと思ったりもする。とにかくチョウジは、食うという事を、自分の修業のように思っている所があるからな。今だけだぜ。こんなにのんびりと、時間をかけて修業が出来るのは。チームとはいえ、頼りになるのは、自分の力だけだからな」
「だからガイは、中忍試験を受けさせるのを1年遅らせて、猛特訓しているわ」
「…確かに間違いではないな。鍛える事は悪い事ではないし」
「何?今更迷っているの?」
「…そういう訳じゃ」
全てのものは動いてゆく。それが定めだ。速さは一定ではないけれど。あらゆる速度で、日々の流れも人のつながりも。そしてその命さえも。動いてゆくものだ。
流れてゆき、決して一つの場所へととどまる事がないのを知っているから。
失うという事を知っているからこそ、物とも人とも、距離を置く。あと一歩で近付けるという所まで来て、アスマはいつも、その一歩が踏み出せない。
その点、ガイはいとも容易に、その一歩を、いや、一歩以上を踏み出してゆく。
何も知らない故の、無邪気な一歩じゃない。失う事を知っていて、そこから受ける悲しみで傷つく事も知っていて、それでもなお、踏み出す事を、ためらわない。
ネジとの食事だってそうだ。他人を思いやる気持ちで、頼まれもしないのに唐辛子のシップを遠くまで買いにゆくのもそうだ。そういう、ちょっとした日常の出来事を重ねて、絆を深くしてゆくことに前向きだ。いつ消えるかもしれない・いつ失うかもしれない儚いものに、あえて自分から立ち向かってゆく。
強い、と思う。そんなガイを羨ましく思う。その強さが自分にはない事を、アスマはよく知っている。
「アスマらしくないわね。いつも何に対しても、全てお任せ的な感じなのに」
お任せか、お前にはそういう風に映るのか。
そんないいもんじゃねえな。アスマは思う。
俺は怖いだけだ。なくすのが怖いから、だから。何に対しても、積極的ではないだけだ。拒めないものだけを、仕方なく受け入れているだけだ。
生徒ともそうだ。なくすのが怖いから、一歩引いているんだ。焼肉という隠れ蓑で、ごまかしているだけなんだ。
そして、そんな俺だから。紅、お前にも、たったひとことが言えないんだ。
「……ガイは入れ込みすぎて、俺は自由にさせすぎた事で」
そして、たったひとことが言えなくて。
「いつか、悔やんだりする日が来るんだろうか」
近づきすぎているように見えるガイ。離れ過ぎている自分。相手とのちょうどいい距離は、どうやったら上手くそして的確に作れるのだろう。
紅の躰は未だに熱を持ち、熱い。熱を持った紅の、その手から離れて、アスマは、紅の長い髪を軽く結わえている髪留めをほどいた。首筋に流れ落ちるその髪へと顔をうずめると、軽く口づける。
「悔やむって?」
「さあな」
「…アスマ?」
「悔やむなんて、ごめんだ」
止まる事は許されない。全てが、流れて、消えてゆく。
今までその流れにさからわず、流れに身を任せて流されるまま生きてきた。一歩引いて、深入りを避けてきた。けれど、それで本当によかったんだろうか。これからも、変わりなく、そのままでいいのだろうか。
流れて消えゆく、全てのもの。
大事なものをなくすのが嫌だから、それを避けて歩いてきた。
生徒との距離・愛するひととの付き合い。人との関係全て。けれど、本当にそれでいいのか。いつまでもなくす事を怖がる自分のままで、いいのか。ガイのようには出来なくても、それでも。
生徒の顔が脳裏に浮かんだ。
たとえようもなくアスマは、不安な気持ちになる。何故だか、自分でもわからない。不安感を払いのけようと、紅の軆を抱きすくめた。包むような優しい力ではなかった。
逃がしてなるものかという、焦りのような、また苛立ちのようなものを、紅は感じる。
身をよじって、背後のアスマの様子を窺った。目を閉じたままでいるアスマの口元に、唇を重ねる。
答えるようにアスマの腕の力が、さらに強くなる。
アスマは黙ったままで、迷ったような表情をし、更に考え込む様子を見せた。
(終) |