ロクなもんじゃない
言い訳にならん。言い訳にならんぞ!ああ、おれってやつは。
今日のおれは全く、どうかしている。
ガイは独りブツブツ言いながら、馴染みの定食屋でカレーを食べているところだった。その様子は、いつにも増して変だ。
はあ〜とため息をついたかと思うと、おーと雄たけびを上げる。そして、勢いよくカレーをかっ込んだかと思うと、むせてブーと吐き出し、焦ってあたりを布巾で拭きまくる。
落ちつこうとして水を飲もうとコップを持ち上げたら中味が無くて、お運びのおばちゃんに「おねえさん、水〜!!」と言ったけれど、おばちゃんは忙しそうだ。
なので、自らコップを持って調理場へ行ってヤカンに水を汲み席まで戻って来た。が、肝心のコップを置き忘れてきたことに気付き。仕方なくヤカンに口を付けて直接水を飲み、はっ!行儀が悪いとキョロキョロして。
誰も見ていないなと、ほっと胸を撫で下ろす。そして再びカレーの皿を持つと、凄い勢いで食べ始める。
ああ、おれってやつは。
ガイは今、自己嫌悪の真っ只中にいるのだった。
今日は日の昇るうちに、任務地から里へと戻って来た。このところ、班のメンバーと共に任務に付くのはまれで、上忍だけで組む、難解な仕事が多かった。
班の子供達とは随分長い間会っていないような気がする。
久々だったので、班の皆がいる場所を少しのぞいて顔を見、声をかけることだけして、そのまま帰るつもりでいた。
もし修行を一緒にと望まれるのであれば、家へ一旦戻り、埃と汗まみれの服を着替え、軽く休息をしてからまた来ようと思っていたのだ。
何せ仕事はここ数ヶ月休む暇無しに命じられ、家の布団でゆっくりと満足いく程、休んだ日など殆ど無かった。それはいいのだ。言われる仕事は全て、拒むことは許されないし、そうするつもりもさらさら無い。それはいいのだ。
ただ、今日は。とにかく疲労困憊していた。正直、腹も減っている。
いつも余分に所持するようにと心がけている兵糧丸は、数日前に底をついてしまっていた。その後、口にしたものといえば泥混じりの水分のみ。
任務は里から命じられたものとはまったく計算違いの、時間のかかるものだった。それで予定よりも、滞在日数が延びてしまった。
けれどそれも、別段、珍しい事でも無い。何日も絶食する事にも慣れている。慣れているといえば、その通りなのだが。
里へと戻り、門をくぐったその時に、何処からかそよいでくる、かぐわしきカレーの香りが、敏感なガイの鼻をくすぐったのだ。そのとたん、今まで大人しくしていた腹が、キュウキュウとその存在を主張し始めた。
気を抜くと、ますます、腹が鳴って、おまけに痛みまであるような気がしてくる。
里に戻ったという安心感は、意識だけでなく胃までも開放するようだ。
我ながら情けない。けれど今は、食欲に我が身の全てを捧げたい。その思いがガイの身体を支配し始める。それ程、体中が胃のように感じられてきた時。
都合よく、食堂の看板が視界の隅に映った。
ふらふらと引き寄せられるように、店へと足を向けようとしたその時だ。
「先生!」
何処にいても聞き分けると自負している愛しい弟子の声が、ガイを引き止める。自分と同じ格好をした少年が、修行場のほうから駆けて来る姿が見て取れた。
「今日戻られると聞いて、いても立ってもいられなくて!」
額に汗を浮かべ、ガイの元へと走り寄る弟子のリーは息も絶え絶えに、けれど嬉しそうにガイを見上げる。その目は、自信に満ち溢れていた。
先生がいない間に僕は。あれもこれも。出来るようになったのです。頑張ったんです。早く早く。先生に見てもらいたくて。待ちきれなくて。
言葉はなくても、体中でそう、物語っているようだった。
ここまで全速力で走ってきたのか、はあはあと吐く息がまだまだ止まらない。
少し見ない間に背が伸びたのか。そう思いながら、ガイは黙ってリーのその姿を見つめている。
肩も腕も、段々と大人のそれに近づいているようだ。背丈だけではなく、地を蹴る足も、宙を切り裂く指先も、そうだ。
見かけだけではなく、内面はどれ程の成長を見せているのか。きっとガイの想像以上に大きくなっている筈だ。
ガイは自分の握る拳に、自然と力がこもってゆくのを感じる。期待感で、心が踊った。
昔の僕には出来なかった技を、教え導いてください。
息を整えながら、リーの目は静かにけれど雄弁に、そう言っている。
毎日が、成長する時期なのだ。そのことに嬉しく思いながら、ガイの口元からは自然と笑みがこぼれ落ちた。
次は何を教えてやろうか。あの技かそれともまた別のものか。少し難しいかと思われるものでも、この子なら。今のこの子なら出来るかもしれぬ。
ガイの思考はもうすでに、修行の場へとその身全てが移行していた。
きょろと周りを見渡して、これから食事なのですかと訊ねるリーに、いいのだと首を振る。それじゃあと、せかされながら修行場へと向かう中で。
ガイは自分にうんざりする。
どうしておれはこうも、いやしいのだろう。
腹が減ったら、モノが食いたい。それは当たり前の事だが、けれどその前に弟子達の様子を見てやろうとは、思わないのか。何故、己の食欲を満たす事を先んじてしまうのか。
今日のおれは、どうかしている。
今日のおれは。いや、いつもの事だ。今日に限った事ではない。欲に忠実なのは別段悪い事では無い。ただ、欲を満たす、その順序を間違えようとしただけだ。ああ、だから今日のおれは全く、どうかしている。
リーと共に走りながらしばらくして、ガイはその足元に違和感を覚えた。ほんの少し、宙に浮く感じがある。パコパコと音が聞こえる気もする。
人並み外れた体術で任務の殆どを勤め上げるガイの、一番の消耗品であり重要な道具のひとつは。足を守るサンダルだ。
踏み込んで、充分に力を入れて足を蹴り出す。また地面へと戻し、再び次の動作へと移る。攻撃を受けとめる時、動きの激しい上半身を支えているのは2本の足だけだ。特に相手が相当な体術の手錬であった場合、その攻撃は腕・足を始めとする身体全てに対して、ガイへと襲いかかってくる。それを全て受けとめる足にかかる負担は、甚大なものだ。その負担は同様に、足を守るサンダルにも言えるのだ。ガイのサンダルは、他の上忍のそれよりも、取り変える時期が早かった。それほど、サンダルは激しく使用され、ガイの体を支えていた。ガイの命綱と言っても過言ではなかった。
だからガイは常に、サンダルには気を使う。長期の任務へ出る時には必ず、新品のものを履いてゆく。その1足で、任務を最後まで勤め上げる事が出来るように。もちろん万が一を考えて、予備は持参しているのだが。
新しいものは普通、足には馴染まないものだ。だから足の甲や踵、アキレス腱のあたりといった靴ずれの起こりやすい部位には、形状記憶の性質を持つ素材が使われている。履くと即座に足にフィットするのだ。だから滅多な事では、靴ずれなどは起こらない。愛用しているスーツ同様、スリッパにもかなりの手間と費用をかけている。靴ずれ以外にも他者とは違う秘密・工夫がガイのスリッパには施されている、そんなこのスリッパは、ガイの為の、特注品だ。
忍術を使う者の巻き物やクナイなどの武具と同じく、ガイのスリッパは体術をより効率的に行う為の重要な、道具のひとつなのだった。
「ああ、もう寿命だな、これは」
音と足の感触に気付いて立ち止まったガイは、後ろ向きで振り返り、足の裏を見る。左はまだ大丈夫そうだが、右は、中央からほんの少し亀裂が入っていた。力を入れて地面を踏みしめると、足元がグラグラと揺れた。左側よりも利き足である右側は特に、地面との摩擦で痛み、消耗度が激しい。
先を走るリーはそのことに全く気付かない様子で、ガイの事を早く早くと手招きするようにその場で足踏みをする。先を急ぎたい様子に見える。
術の仕上がり具合を見てやる程度なら、これでも充分持ちこたえられる筈。そう思い、演習場にやって来たガイだが。
思惑が外れた。
リーは久々に会った師との手合わせに有頂天の極みで、その手を緩める事無く、ガイへと向かって来る。ガイのいない間に会得したものと、それまでの技とを器用に合わせ、次から次へと休みなしに技を繰り出してくる。
過ぎ行く時を惜しむように。呼吸をする事、まばたきですら時間を使うのが勿体無いと言うかのように。
最初はリーを軽くあしらっていたガイだった。けれど時が経つにつれて、技の巧緻さよりも、リーの気迫で技全てを押される形になってしまっている事に気付く。技では、負けてはいない。決して、負けはしない。けれど、気迫で負けている。ガイは、そう感じた。
ちょっとタンマだ、リー!
その一言が、言えない。リーの殺気すら漂うその目は、師のガイに対しても、ただの一言すら言わせるスキを与えようとはしなかった。
ガイの目にリーは、急いでいるように映った。自分の足りない部分を何とかして補わなくてはいけないと、苛立っているようにも見えた。
何をそんなに焦っているのだ、リーよ。
リーの気迫の激しさに直接触れて、驚きを感じる反面、おかしな話だが、心中、嬉しさという感情が込み上げてくるのを押さえきれないガイだ。
リーが見ているその先にあるものは、ガイではなかった。普段練習相手にしている仲間でもない。まして、リー自身でもない。
誰でもない、誰か。まだ見ぬ敵を、そこに存在するかの如く目の前へと、ありありと思い浮かべるようにして、その見えぬ敵と闘っているのだ。
中忍試験という場で闘い、そして敗れ、自身との闘いでもくじけそうになり。そんなリーが、忍をやめなければならないとまで言われ、ただ泣くしかなかったリーが、成功率5分5分の難度な手術を乗り越えて、忍の道へと戻って来た。
その後は、その身体に傷を負う前よりも強く熱意を持ち、術と技の修得に励み・溺れる日々を送るようになっていたのだ。
何を焦ることがあるのだ、リーよ。
ガイは思う。ネジか。ネジの事か。
中忍試験以来、宗家との確執が無くなり、それまで無意識に築いていた壁が崩れ去った今、宗家とネジとをつなぐものは、日向という名と、その家に生まれた者しか継承出来ない技の伝授に他ならない。
憎んでいた宗家が、今は亡き父の面影とも重なる、ネジだ。宗家の持つ巧みな技を、そしてその姿をすら慕う事は、自然な成り行きなのだろう。宗家の元で木ノ葉に於いて最強と言われたその技を学び、あるいは見て盗み取る事は確実に、ネジの中に未だ眠る未知なる力に火を付ける。それは今後、華やかに、その姿を開花させるに違いない。
その点でもリーは、焦りを禁じ得ないのだろう、きっと。ガイは手に取るように、リーの気持ちが分かった。
ネジはどんどん遠くへと離れてゆく。どんなに術を修得しても、その距離は縮まるどころか、離される一方だ。だから、焦り苛立つ。自分には、休んでいる時間などないのだと思うのだろう。
リーのガイに向かって来る、その拳はまるで、高度な技の伝授を請う修行者に違いない。けれど、ガイの目に映るリーのその姿はなんだか、幼子の、この世の全てのものを手に入れたいと願うワガママにも多少は似ているようにも思えて、ガイは可笑しくなった。
僕も僕も。僕もあんな技を使いたい。ネジの新技に匹敵するような、もっと高度な技を、僕も。先生、あんな技を、教えて下さい、早く、僕にも。
精一杯手を広げて、高みへと手を伸ばし求める姿。
ガイはそんな、道に対して一途なリーがいとおしく思えて、しかたがなかった。
何も焦ることはない、リーよ。
お前には、おれの持つ全てを教えてやろう。けれど、今出来る事と出来ない事の区別くらい、お前にもつくだろう。欲しがるからと言って、何もかも、今、教えてやる事は出来ぬ。どれ程時間を必要としても、お前には、おれの全てを教えてやると、心に決めている。
だから、何も焦る事などないのだ、リーよ。
ひと勝負ついた後も休む間なしに、リーはガイの手を引く。手合わせを願い、掛け声も雄々しく、その身体を動かし続ける。
しかたがない。付き合ってやるのも師としての役目だ。そう思い、ガイが地を蹴ろうと、足に力を込めたその時。
ずるん、と右足が滑った。あっ、と思ったが、遅かった。
ガイは、前のめりに勢いよく倒れた。蹴り出した勢いそのまま力で地面へと、胸を打ちつける。
しまった。
すぐに視線を右足の裏へと移す。ここへ来た時には、ほんの少しだけ亀裂が入っていた部分が、今は見事に裂けて、スリッパの裏としてはその用途を為さない形となっていた。これでは蹴る為の力を入れるどころか、普通に歩く事も不自由なように思われた。
何故、あの時新しいものと、取り替えておかなかったのか。
全く今日のおれは、どうかしている。
起き上がらなくては。
地へと倒れてしまったのも、きっと足の踏ん張りが効かなかった所為だ。片足のスリッパに力が入らなかったとしても。足は2本あるのだ。もう一方で地を踏みしめて立てば、よい。なのに、この不様な姿はどういう事か。起き上がらなくては。
改めて脳にそう指図しなければ、起きあがる動作が出来ない。否、起き上がるという事すら、考えも浮かばない。それ程、身体は疲れていた。
起きあがらなくては。けれど一旦休みを得た身体は、限りない貪欲さで休息を欲しがる。こうなってしまったら、主人であるガイの言うことにもそっぽを向くしまつだ。
カレーの匂いを感じたあたりで、無理をせずに休んでおけばよかった。けれど今更、後悔してみても、時が戻る事はない。
リーが、くるくると回るように円を描き、宙を蹴り上げているのが見える。
けれど腕にも、手にも力が入らない。身体が、動きを放棄している。
ああ、おれは今日、どうかしている。こんなおれは、おれではない。ああ、腰も重い。あちこち思い出したかのように痛みも感じる。
おれは一体、どうしたというのか。
いつまでも地に伏したままで動く様子を見せないガイに対し、リーは場所を移動し木に蹴りを入れながら息を弾ませ、言うのだ。焦りの色も見て取れる声で。
「青春は待ってなんかくれませんよ」
青春。それは留まる事無く流れてゆく中の一瞬。けれどその一瞬は時を越え、永遠に光り輝く事が可能なのだ。
だがそれも、青春をしようとする者の気持ち次第なのだ。
リー、若さの真っ只中にいるお前が、何を焦る事がある。焦らなくてはいけないのは、このおれだ。おれはそんなに若くない。
青春……そろそろ青春も無理な歳か。おれは今のリーのように、何もかも全てに対して真っ直ぐに、突っ走ってゆく事が出来ぬ。
そんな事を、思った。ふと、そんな文字が頭の中をよぎった。
思ってすぐ、後悔する。
どの頭がそんな事を考えたというんだ。おれか?おれのこの頭か?
バカな。おれは一体何を?言うに事かいて青春も無理な歳だ、だと?
ガイは、極度の疲労で働きが鈍くなった頭で考える。そうだ、どこかの誰かも言っていた。
「青春とは、若い肉体にあるのではなく、若い精神にこそある」と。
だから何時いかなる時も、その身体が万全に働く状態に置いてやらねばならない。その身体を支配する精神を、正しく機能させる為に。
肉体は歳と共に老いてゆく。これは誰しもが避けては通れない決まり事だ。
けれど精神は。必ずしもその肉体と同様の年齢を重ねてゆくとは限っていない。疲労は思考を気弱にする。そして、精神を急速に老化させる。
知識では、分かっていた。目の前で実際に、見た事もある。極限にまで達した疲れをその身に受けた時に、決して弱音を吐かない者が、その人格を変えてしまう程、気弱な発言をする姿を。
古くから言われるように、健全な精神は、健全な肉体に宿るのだ。気弱な肉体は、気弱な精神・思考しか生み出さない。そして今の自分は、まさにその気弱な状態なのだ。若くはないという肉体的な理由で、全て無かった事にしようとしている。そもそも、若さとは何だ。年齢を言い訳にする、その事がすでに弱さであり、それはすなわち、青春を冒涜していることに他ならない。
こんな思考をするのなら、はじめから青春など、しなければよいのだ。
一生青春!一生熱血!忍の道へと入る時、そう、心に決めたのではなかったか。
青春とは、何なのだ。ガイは自問自答する。
青春とはすなわち、努力だ。たゆみなく、飽くなき忍の道を追求する決意の道だ。
ガイは邪念を振り払うように、頭を左右に振った。
年齢など関係無いのだ。いつだってどこだって、青春はその者の気持ち次第で爆発燃焼するのだ、そうあるべきなのだ。そうあらねばならぬのだ。
ガイはうつ伏せた額を土へと擦りつけ、己が目を覚まそうとする。
おれは、どうかしていた。
忍道を貫く為には、いつだって青春!いつだって、熱血!
今日のおれは、全くどうかしていたのだ。
ああ、言い訳にならん、言い訳にならんぞ。おれって奴は。全く。
おれはまだまだ、忍道を極めてはおらぬ。身体の疲れ程度でその道を見失うとは、まだまだ分かってはおらぬ。身体の芯の芯まで、忍道が入りきっておらんのだ。
おれの青春は、すなわち忍道。そして今のおれの忍道は、リーを一人前の忍者にすることだ。
なのにこれでは、リーを一人前にするどころか、おれが一人前にすらなってはおらぬではないか。木ノ葉の里の上忍を拝命している、このおれが。教師として子供達を教えている、このおれが。
他の者に忍道を説くなど、まして、奥深い忍道へとその身を導くなど、おれにはまだまだ、遠き事なのではないのか。
未熟なおれはもう1度、一から修行のやり直しだ。
ああ、おれって奴は全く。どうかしている。
ヨロヨロと立ちあがるガイと、師の様子を少し気にしながらも、大木へと蹴りを入れることに熱心なリーと。その二人の様子を、ずっと見ている者がいる。
テンテンだ。どうにかこうにか立ちあがったガイの、身に付いた砂埃をはたいてくれたのは、テンテンだった。女の子らしい気遣いでポケットからハンカチを取り出して、ガイの顔に付いた汚れを拭ってくれたのだ。人の世話を焼く事が、嬉しいといった様子で。
頬杖をつき、微笑して。班の一員である彼女は、ずっと、彼ら二人を見ていた。
全て知っているかのように、全て見通しているかのように。全て、思うようになったとでもいうかのように。そして、もしかして始めから何も知らないかのように。
密かに微笑んだままで、そこに、いた。そこに座って、頬杖をついていた。
大汗をかきながらカレー皿の中味を綺麗に平らげてしまうと。再度ガイは横に置いてある炊飯器からご飯をてんこもりにし、湯気と共によい香りの漂うカレーを、前に置いた大きな鍋の底からかき混ぜ、ご飯の上へとこれまた多量によそった。
いくら食べても食べても、先ほどの後悔の気持ちが胸に重くのしかかるせいなのか。悲しいくらいに満腹感を味わう事は無かった。断食をした後なのだ。胃は小さくなっている。少量でも満足出来る筈なのだ。なのに。
満たされない気持ちのせいで、必要以上に食物を欲してしまう。けれど、求める量と等しいくらいの多量の食物が、しぼんだ胃の中へと入るとは思えない。
ガイの大げさな動きの割には、口にしているカレーの量はさほど多くはない。実際、脳の求めとは裏腹に、胃は既に吐き気すら覚えて、目の前の山盛りのカレーを前に、ため息をついてしまうガイだった。
「また、派手にカレーをかけてるねえ、ガイ」
賑わう店の中で、聞き覚えのある声がする。スプーンを口にくわえたままで、ガイは声のする方を向いた。
「む?何だカカシ、何か用か」
言い捨てて姿勢を元へ戻すと、ガイはカレーを殆ど噛まずに飲み込むように口の中へと入れ始めた。そしてその事に気付き、皿を置くと深呼吸をした。今度は一匙ごとに、ゆっくりと、そして何度も噛みしめた。その間中、あいかわらずその場所にひょろっと立ったままでいるカカシは、スローな動きで、
「これ、頼まれモノ」
言って手に下げた紙袋を、ガイの顔の前へとぶら下げた。ガイはじろっと睨むように見上げた。機嫌の悪さを隠す様子もない。うるさそうに、ボソッと言う。
「何だ」
「スリッパ。お前の班の、女の子、テ…」
カカシはう〜んと考え、口篭もる。名前が、出てこない。
「テンテンが、どうした」
「先生が困っていると、言いに来た。リー君も一緒に」
「ああ」
「お前のスリッパ、新しいものが、製作所から待機所あてに、届いてたから」
足を引きずるようにその場を去ってゆくガイを見て、テンテンなりに考えたのだろう。けれど、上忍ばかりの待機所へ入ってゆく事に気後れし、リーを伴って来たのかもしれない。その心意気を、ガイは泣きたいほど嬉しいと思う。優しく思いやるその気持ちを、心地良く思う。
子供達でさえ、これほどの心遣いを見せるのだ。それなのに今日のおれは。
全く、どうかしている。そしていつまで、同じことを考えているのか、おれは。まったく。ああ。
再びスプーンをくわえたガイは、唸るような表情を見せた。
「おれは、おれの事が許せぬ、カカシ」
「少し、聞いた」
テンテンとリーが何と説明したのか。その事について、カカシが詳しく話す事はなかった。
ガイは口からスプーンを放すと、机の上へと置いた。抱えていた袋からスリッパを取り出して足を入れ、具合を確かめる。
その間も、口元は真一文字に結ばれたままだった。カカシへと向き直るとガイは低く、言い放った。
「お前はいいところへ来た、カカシ。頼みがある」
「嫌だ」
「聞く前から断る奴が、どこにいる」
「ここにいるよ」
テーブルの上に投げるように置かれた、カレーが入った鍋とご飯の入った炊飯器。それをチラと見、カカシはガイとそれらを見比べる。
ガイはカカシの目の動きに気付いた。
「お前、腹が減っているなら食っていいぞ。遠慮するな」
「いらない」
確かにカカシは、腹が減っていた。ここでガイと肩を並べて食事をしても、それは別にかまわない。けれど、見ればカレーは、まだ大量に鍋の中に残っている。今ここで、大食い勝負を持ちかけられでもしたら、と考えて、早々に立ち去ろうと思ったのだ。
「頼みがある、カカシ」
「しつこいよ」
「おれを、殴れ。おれに化けて、おれを殴れ」
その場を去ろうとするカカシに。ガイは、強い口調で言った。何を言うのかと少々驚いて。後ろ姿のまま、カカシは訊ねる。
「何の為に」
「おれの為に」
「お前の?」
「カカシ、おれはいつまでもお前のライバルであり続けたい。だが、今のおれでは駄目なのだ。こんな腑抜けのおれでは。今日のおれは、全く、どうかしている」
苛立つようすで、ガイは続ける。
「だからおれは、おれを殴りたいのだ。けれどそれは、出来ぬ相談だ。だからカカシ、お前がおれとなって、おれを殴れ。訳は言わぬ。殴って、一人前への忍の道へとおれを誘(いざな)え」
カカシは、眉間のしわと目の鋭さの中に、ガイの切羽詰った思いを感じた。
弟子の前で転倒し、動けぬという失態を見せてしまった、その事は耳にしている。後悔の気持ちなのだろうかと思った。それにしてはどうも様子が、大げさな気がする。
言い訳出来ない大切な何かを、ガイの考える自分の基準の中での許せない何かを断ち切ろうとしている、それだけは分かった。キッカケが、欲しいのだ。
カカシは短くため息をつくと。まあいいか、と小さく呟く。
のろのろと印を組み、ぼわんと音がして。カカシの姿が消え、代わりにその場にもう一人、ガイが出現した。
急に始まって一瞬で終わった、ガイともう一人のガイの喧嘩の真似ごとに。定食屋に居合わせた面々は息を飲み、目を白黒させた。夕食時分で騒がしかった店内が、凍りついたように静まり返る。
真っ赤に腫らした頬を庇うように、けれどどこか満足げに店を走り出てゆくガイを見送って。
その場に残るカカシに皆が注目する中、当のカカシは何もなかった様子で、さっきまでガイが座っていた椅子へと腰掛けた。まわりの視線など、全く気にしない。
鍋の蓋を取り、カレーの液体へと人差し指を突っ込んだ。そして、とろみがかった黄土色の、生温かい汁がついた指を舌先でちろちろと舐めた。
「……」
予想していたものよりも、強い味だった。
カカシは眉を思いきりしかめると、机の上にあった紙で指先を拭き取る。ふと、右手が気になった。
黒の手甲を引っ張り、右の手を覆っていた布を取る。細長く白い指先の、素手が現われた。
力を入れて、握りこぶしを作ってみた。指の付け根が、赤く腫れたようになっている。カカシは唇を寄せて2・3度、ふうふうと息を吐きかけた。少々、痛かった。そして時間が経つと共にその部分は、だんだんと痛みが増してきた。
思いきり殴ったらガイの頬は腫れた。が、自分の手も同時に痛めてしまったという訳だ。
期待に応えて、力一杯殴るコトなかったかなあ。ちょっとサービスしすぎたかな。
でもなんだか、喜んで走って行ったよ、あいつときたら。そう思い出しながら、カカシは手甲を元通りにはめ直した。
自分ルールも、ホドホドにしておいたらいいのに。カカシはため息をつく。
あいつってば、顔面が硬いけど、脳みその中味も、顔と同じ位に硬いんだ。融通が利かないよなあ、ホント。脳の中でいまどき古い、青くさい青春してるんだ、きっと。
あ〜あ、とアクビを一つして、カカシは痛みを覚える手をさする。
痛い目をして損をしたような、でもいい事をしたような、ヘンな気分のカカシだった。
無言のままで、新しい皿の上へと少量のご飯を盛る。腰のポシェットを探って小袋を取り出した。ご飯の上へとせわしなく、しゃかしゃかと振り下ろす。
そしてカカシは、キイロやチャイロの粒でトッピングされた、つまりフリカケの載ったご飯を、胃の中へと落とし込み始めた。
(終) |