高き壁。(上)

 木ノ葉の里上忍待機所。午後4時30分。
 いつものごとく口元に手をやりながら咳込んで、扉を開くハヤテ。
 入ってすぐに立ち止まる。室内の雰囲気に異様さを感じて。言った。
「なんか暗いです」
 入口近くで立って煙草を吹かすアスマに気付き、ハヤテは見上げる。
「暗いです」
 アスマは長く煙を吐いた。目で方向を示す。
 部屋の奥、机の上に顔を乗せて目を閉じ、溜め息をつく男。これが暗さの元凶のようだ。頭を傾けているせいで黒い髪が斜めに流れ、珍しく額が見えている。
「ガイ。いつまでその状態?」
 ほけっとした声で、隣のカカシは溜息男、マイト・ガイに、呑気に訊ねる。手元の本に、視線を落としたままで。
「……何のことだ」
 酷い掠れ声。目をうっすらと開け、まわりを見るガイ。
「いつの間に、こんなに人がいる?」
 蚊の鳴くような響き。
 「カカシ、お前だけじゃなかったのか…」
 いつもの勢いが感じられない、上擦った音。
 その声と共に、周囲はますます重い雰囲気へとなだれ込んでゆく。
 咳をのみ込むハヤテ。うっかり何度も咳込むと、静かにしろと、叱られそうな感じがする。
 アスマは短くなった煙草を揉み消した。胸ポケットを探った。
 煙草の袋は、空だ。
「これで良かったら」
 腰のポーチを探り、差し出すハヤテ。偶然にもアスマと同じ銘柄。
「お前」
 驚きながら受け取って。
「咳込んでるのに、吸ってんのか」
 吸ってるから咳込んでるのか?呟くアスマ。
 あいまいに笑って、答えないハヤテ。
「…それで何ですか、あれ」

 ガイの教え子、日向ネジ。
 彼が技を、自己開発しているという。その情報源はロック・リー。
 2人とも、ガイが熱情を持って、目をかけ育てる自慢の教え子。
 そのリーが、隠れて目にしたネジの新技。
 それは既にガイの周知の事実だ。弟子の動向は、さりげなくけれど確実に、把握している。
 しかしリーの報告を、互いの目を合わせ頷きながら、初めて聞く様子を装ってやる。
"まるで球体のようです。目にも止まらぬ速さで回っていたんです"
 目を丸くして、興奮状態の状況説明。
"なんだか凄いです、ガイ先生"
 感動に打ち震えるリー。たとえ同班とはいえ、他人の新技の迫力に手放しで喜びを表している。
"お前って奴は!"
 嫉妬するという考えと、全く無縁の弟子。
 人の喜びを自分の喜びと出来る、素直な性格。頬を高揚させ、自分も頑張ると誓うのだ。
"先生、見ていて下さい!"
"愛しいぞ、リー!"
 ガイは片膝ついて、両手を広げ。
"来い!リー!"
"せんせい――!"
 全力疾走で駆けてくる、リー。
 ひしと抱き合う師匠と弟子。
 リーはガイのあふれる愛情を感じ、ガイはリーのまっすぐな若さを感じ。
 体温を通して通い合う、師弟の心の繋がりは、更に深くなり。
 そしてリーはガイの髪に顔を半分うずめながら、言うのだ。
"先生、ネジにも"
 ネジにも、同じように抱擁をしてやってくれと、せがまれて。当然のように同意したのだ。その時は、そう感じたのだった。
 リーに先導されるように、連れ立って演習場へ。
 ネジは中央で、独り、ポツンと立っていた。
 その姿は年若い年齢を全く感じさせず、あまりにも孤高すぎてかえって孤独なようにも見えた。誰も近寄らせない、周りの者を受けつけない気配。
 リーはもちろんのこと、ガイも声を掛けられない。しばらく様子をうかがう2人。
"……先生か?"
 動かずに呟く、ネジの声。その小さな声に突き動かされるように、ガイはゆっくり歩み寄る。
"何の、用です"
 手の包帯を巻き直すのか、シュルシュルと解く音がする。
 "新技が、出来たそうだなネジ"
"あなたは知っているはずだ"
 遠くでガイが見ていたことを。ネジはすでに、気付いていたのだ。
 木の影で見守るリーには聞こえない、小声。
"なのに今ごろ何故、わざわざ"
 もっともな発言だ。けれどその時も今と同じで、声掛けをためらう雰囲気だった。
"いや、その、何だ……"
 ガイは膝をつくタイミングも両手を広げるチャンスも失って、どうしようかと躊躇する。
 リーのいる方を、ちらと見ると。期待のまなざし。

 あの時は黙って去ったけれど、今回は。そうもいかない状況だ。
 ネジは言いよどんでいるガイの言葉をしばらく待っていたものの困った顔をしている様子を知って自分で決めたメニューをこなす為に、次の動作へと入ってゆく。
 様子を察して、リーはそっと、その場を離れていた。
 ガイにとって、リーの姿がすでにそこになかったのは、幸いというべきか。


 つまり、ガイは、ネジに自身の気持を2度も、伝えることが出来なかったという訳だ。伝えることすら軽く拒否され、そのことでガイは気持を、へこませているという訳だった。

「これではいかん」
 と、頭をもたげ、鬱陶しげに周囲を見渡し。
 トイレに行くと席を立ったガイの、その後ろ姿にも、暗い影が纏わりついて離れない。ヨロヨロと扉にたどり着くまでに、机やイスの角で腕や足を打ちつけ。
 しかもそのことに気付かない様子を、間抜けと表現出来たなら、その場の空気はどれ程軽くなるだろう。けれど誰1人、笑えるものはいなかった。
 それ程ガイの姿は弱々しく、精を欠いていた。

「悩みは深そうですね」
「分家のガキは難しい」
 アスマはハヤテと共に煙草を吹かす。
「俺だったら受け持ちは断るな。それとも当たりさわりなく、付き合うか」
「というか、放任主義ってことですか」
 言われ、アスマは素直に認める。
「ま、そうかな。けど、誰に対してもという訳じゃない。生徒限定ってやつだ」
 俺は相手を見て付き合いを変えるからな。呟くアスマ。
「…それで、その後どうなったんです?」
 小さな声で、ハヤテが咳込みながら訊く。答えてやるアスマ。
「消防訓練ののろしが上がり、ガイは救われたって訳だ」
 本当の意味、救われたのかどうか。それから丸1日。
 自己嫌悪の気配が拡大し、周りに陰気が飛び火する。


「元気印が陰気だなんて。ゲンキがインキ」
 ゲンマは言って俯き、笑う。
「シャレにもなってねえ」
 イビキは興醒めしてしまう。大きな躯がのそっと動く。
「ちょっと用事だ」
 部屋を出てゆくイビキの後を、今が去り時と後追いのゲンマとアオバ。
 部屋には、カカシとアスマ、そして、入り口近くで煙草の煙にまみれているハヤテが残った。
 アスマは吸い殻を揉消すと、カカシの隣に腰かけようとやってきた。
 けれどカカシに軽く拒絶される。そこにはガイの緑色の、座ブトンが置いてある。
 仕方なくアスマは、斜め前へと腰を下ろす。
「出来が悪い子ほど、可愛いっていうよね」
 本に視線を落としたままで、カカシは呟く。
「何だって?」
 突然の話に、アスマは顔を上げた。
「ガイはリー君を可愛がってる。技の成績だけで言うと出来が悪いのはリー君だ。ガイが可愛がるのは、出来不出来という理由ではないとは思うけどね。純粋に自分のあとを追ってくる子は可愛いよ。……でも、担当教師を困らせるネジ君の方が、世間的には出来が悪いよ」
 何のことかと思えば。さっきの、ガイの落ち込みの原因か。アスマにとってはどうでもいいのだが、なりゆきでカカシの話に付き合ってやる。
「分家とはいえ、日向の血だぜ」
「あの子は、自分から孤独の世界にいこうとしているみたいだ」
「確かに日向のガキは、何考えてるんだか、理解しがたいところはあるな」
「リー君は素直だ。分かり易いのは、ある意味面白くないよ。その反対にネジ君は、何を考えているのか理解し難い。俺はそんな風に、屈折している所に面白味を感じるんだけど」
「そう思えるお前の方が、屈折していると俺は思うぜ」


「見るポイントを変えればって話。だからネジ君の方が可愛いと思えるけど」
「そうかな。俺は単純で分かり易い方がいい」
「ただ、これは机上の空論で、実際のネジ君と対峙するガイは、大変だろうという結論」
 カカシは本のページを捲る。
「必死で向きあおうとしているんだけど、ガイは相手を買いかぶりすぎてる。小手先の技じゃ通用しない子だ。ガイはそのことを、分かっていない。言葉なしで乗り切ろうとしてる。ネジ君は、ガイの気持ちを察してはくれない。見かけはともかく中身はまだ、子供でしょう。俺にはガイの言いたいことや気持ちは分かるけど、まだまだネジ君には無理じゃないかな。というか、そんなに簡単に分かってもらったら、俺の立場がないけどね」
 そりゃそうだろうな、とアスマは心の中で頷く。カカシにしてみれば、ガイの心中など、すべてお見通しだろう。ガイはカカシの手のひらの上で、遊んでいるようなものだ。
「ガイは一生懸命に、ネジ君との関わりを悩んでる。簡単なことなのに悩んでる。ガイの班はみんな出来が悪い。指導教師を筆頭にね。でも」


 言って、カカシは目を伏せる。アスマは黙って、カカシを見た。
 カカシは下を向いて、くすくす笑っていた。 


「そんなところが、出来の悪さが、とても愛すべきポイントだな」


 正直の前に馬鹿がつく、世渡り下手な男。
 カカシは隣の座布団を、その右手でポンポンと叩く。そして、開いていた本を閉じた。
 ネジの話のはずが、いつのまにか、ガイの話に。
 まあ、どっちでもいいけどな。
 アスマはカカシが顔を上げたのに気付き、同じ場所に視線を移す。
 どおんと勢いよく開かれる、扉。
 そばで立つハヤテ。驚き体を硬直させた。
「お前ら、ハラ減ってないか?!」
 いきなりの大声。両脇に抱える、大量の房のバナナ。そこには、仁王立ちのガイの姿があった。
「ガイ、お前…」
 呆気に取られる、アスマ。
 どこでこんな多量のバナナを、仕入れてきたっていうんだ、こいつはしかも、出て行く時に見せたあの暗さは、どこへ置いてきたのか。
 心配して損したかと、苛立つアスマ。
「イビキもゲンマもアオバもいないのか…」
 残念そうな、ガイ。3人の分も買ってきたのだろう。
 とはいえ、総勢7人でも食べきれないほどの、バナナの量。
 そして今、この部屋にいるのは、ガイを合わせて4名のみ。しかもハヤテは小食だ。アスマもカカシも、バナナを好んで食べるほうではない。
「なんだか、1人20本ノルマです……」
 バナナ地獄から逃れようと、ハヤテは戸口に向かおうとする。
 ガイは背中で気配を察し。
「帰るのなら、持っていけよハヤテ!」
 力強くハヤテの肩をたたくガイ。嬉々としてバナナを選別し、後ずさるハヤテに、強引に押しつける。力なく呟くハヤテ。
「……私なんかにくれなくても」
 恐縮なのか迷惑なのか、あいまいな発言で応答する。
「もっと必要か?」
 屈託のない笑顔。ハヤテは何だか面食らう。 
 先程まで消え入りそうな声で、元気も全く無かったのに。
 トイレに行って、バナナを手に入れたあたりで、何かいいことでもあったのか。まあとにかく、元に戻って良かったと、ハヤテは心をなでおろし。礼を言って去る。
 手を激しく左右に振ってハヤテを見送っていたガイは、きびすを返し、戻って来た。
 「カカシ、お前、愛すべきポイント間違ってるぜ」
 ガイの表情をちらりと見てアスマは、恐れ、顔を歪ませる。
 もう充分に、元気じゃねえか。しかもバナナの山ときたら。いつものことだが、ホドホドという言葉を知らないな。
 アスマは髭を撫で付ける。バナナを抱えた自分の姿を想像し情けなく思えてきた。そうなる前に退散と、早口でまくしたてる。
「すぐ戻って来るからな。すぐだ。そうだすぐだぞ、ガイ」
 そうかと返事するガイと、顔を突き合わせるのを避けるように、大股で
走るように出て行った。

*下巻 へつづく*